小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和七年十一月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話
第四十四話
三光太源会で平一が、門下に教え諭していた
ことはー
その12 天霊神について 続きその9
今月も引き続き、天霊神の行門についてお話し致します。
第五十門
その応接所でその案内神よりこの五十殿の中の修行の説明をして貰うことになった。さすると、模型が自分が対座なしている所のテーブルの上に、ありありと殿中の様子が手に取るように見えた。
そうすると、まずその第一に、第一室即ちNOIその部屋の間取りと云うか、設備が人間が生まれた時入れるタライ、小判型の大きなタライみたいな様なものの形をして、それに細かに八十二の刻みがぐるりと付いているのが、その中に四十八置いてある。 これを段々に修行者に座らせて、一つから四十八個を一つ一つ渡って行くのだ。
そしてその一つの中にある八十二のきざみは、そのもののその霊自身が、自分がその範囲内において、八十二の変化をなす處の力と、八十二の創造をなす處の力、八十二の神の造りなす創造を実現させる力を、その中に養生させられるのだ。
此処においてあらゆるものが、まるで今迄の行を実現なすみたいに、そのタライの中は細かく分析すると、その八十二の細胞によって形作られる所の小判型のものと思えば宜しい。
まずその上に、人間大の霊が座ったとする。そうすると、どこから入ったら良いのか判らないことになる。これはローム自身も判らなかったが、大体において、霊界と幽界の間に存在する天霊神の存在は、光と空とに波動を以て繰れば、必ずその入り口が判ることを皆自覚しておいて宜しい。
その定則によって、ロームは一定の合体、統一をなしてみろと、丁度座った所の右の方向が、門となっているわけだ。そういう時には、常に合体を前提として考えられるから、そこの門の中に入る自身の身体は三分の一の身体にならなければならない。そしてその創造の身体を、完全に自分となすには、そのものの中に自身を完全に合体せしむれば、その一つの部屋に入ること出来るのだ。
さすると、その部屋の中は、この前言った通りの話の様になる。即ち二十四の足と。十二の大きな花が、六つづつ分かれていて、きちりとなされた構えをなしている部屋なのだ。
まずここに於いて、先程の石を取り戻して、この足の格好は、ロームは急ぎ足で片一方、片一方と踏んで来たが、
これで良いのですかと指導神に問いただすと、まあそれでも進めるな、汝は二つの足を全て同方向に向けて、進むように歩けないかとの問いに対して、ロームは困惑した。
同方向に向けて同じ足を大地につけたら、飛び上がるより方法が無い。人間なればその方法よりない。然しながらその足形は、いかようにも自分の意思により変えることできる。乗って見ると自由に動く。しかし間断なくコツコツと前進して行く。
それによって、歩こうが歩くまいが、自身が意識せずして、刻々とその位置が変わって行く。そして二十四の足の全部踏まずしても、ただ時間の差のみに於いて、元の所へ又帰って来る。
ベルトが廻って廻って、元のつないだところに帰ったようになる。しかし、その廻っているものは、全部同じものとは云えない。その触れるところの空気又湿度、温度等、いろいろのことによって、回転が全て同じところを通っていない、同じところに触れていないのだ。
ロームは暫く苦労して考えた。何回転しても判らず。今やっていたのは、同じ方向に向かってちゃんと立っていただけだ。
しかしやはり一回転していた。ところが一回転するたびに、左右の足の開きと、又〇の出入り、又四つ足の出入りが段々に変わってきている。これが丁度判ったのは、十回転目の時なのだ。
それではと思い、右足よりふみ出して歩いてみた。さするとその回転は前の半分にして、その一回転をなす。又左より試みる、同じ半分の時でその一回転なされた。ところが、その時の両方の花の位置は、1つずつ無くなって、三対三の場合の様に見えてくるのだ。
所がその三つは、上の方に上がり、双方ともそういう状態にある。さてここで、これは静止していても、歩いても、常に運行なしているものは時である。これは人間の時である。所が静止して運行している時は、各六つずつは平凡なる形をとって、開く閉ざす、開く閉ざすと云う様になっているが、自分が歩行なした場合は、双方三つずつ上に上がり、上下の振動を現し、その回転が半分の時によって廻って来る。
そこで先程の事が、ロームがあの花園の時の礼をしたことが、皆わかるだろうと思う。人間というものは、時によって支配されている。これは人間の歴史を意味しているものであり、常に同じ状態ではないが、あるものは繰り返されている状態がある。これが時の運行なのだ。
これが同時にその時期も、運も、命も、皆対座なすか、対座なさないかで、その人々の努力によって、そのものが非常な速さでその時を過ごさせるということは、短い時間によって、膨大なる幸運と膨大なる命をそのものに授けてくれるという、非常に良い修行場であることを感知出来たのだ。この教えに対しロームは最敬礼したわけなのだ。
汝らも一分一秒たりとも、自分の向かっている方向に対する合体と、又自分の運となし、天の命じる命となす所の命と共に、同じレベルの上に汝等が心の中に思い続けるこそ、自分が一番近道の幸運並びに盛運を、その通って行く人生の中に見いだすということを確認してもらいたいのだ。
この修行が、天霊神が四十八のこの小判型のこのものを、この八十二の四十八倍の間の部屋を駆け巡りながら、自身の運命となり、又命じられたる命を完全に遂行するために、神の創造と人間の創造と、あらゆる変化の八十二の術をその中で縦横無尽に活躍なし、はっきり自分の命が出ているという所のベルト、所謂神の三本の布の中に、光道の中に、その自分が敢然として、自分の使命の何神であるかということを、証明できる修行場がここ五十門なのだ。
故に、この五十門というものは、汝等とっても非常に良き所の殿であるから、汝ら一か月前によく考えろと言っておいたのだ。そのためにも初めから読ませるべくそうさせたのだ。
さするとここに、あと第二室NO2がある。これがまた面白い。今迄自身の力、又自身のあらゆる綜合は、即ち幽体、霊体、本体に関係ある所の、諸々の霊神のすべての総合によって、その一室を出来たものがこの第二室によって、そうさせなくてもよい所の光を満たされるのだ。
日本の升の様なものが八つあって、その中に丁度埋められる。そして満たされる神の光に、満たされる所謂各神のどこに所属するかというものの光だ。
それは修行のものが八つ入っているとする。そうすると、その第二室は決して八神以上の霊神は入れない。
と云うのは、その神が何の光に満たされるかというのを、この八神以上に知らさないためなのだ。そしてこの八神は、今度は三番目の部屋に行かれる。
続く