小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第三十八話D)2022年1月


令和四年1月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第三十八話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第三十八話

平一の豊野油田開発の苦闘の歩み


その5 神慮に叶わず、第一号井松代地震で
     掘削中止に


 そのような経緯を経て、昭和35年3月31日に太源石油の豊野鉱区を石油資源開発株式会社との共同鉱区として申請すると共に、同社と次のような内容の契約を締結致しました。

@ 弊社登録並びに出願鉱区に於いて、同社が石油並びに天然ガスを掘取し、取得することを承諾すること。
A 同社がそれらを取得開始の際には、弊社は5%〜10%の歩油の支払いを受けること
B 弊社が同数の坑井を採取出来ること
C なお、同社が行う行為に関する費用は、すべて同社で負担すること

 歩油とは採取した石油・天然ガスの鉱区権利保有者への割り戻しの事で。このような契約に於いては通例との事であります。
 併せて、出油した場合には、当社に於いても同じ数の坑井により採掘できるという、極めて有利な条件が付いておりました。
 この契約の実務を推進したのは、同社探鉱部長の池辺 穣氏でありました。同氏は業界の重鎮で、その後同社の専務から南海石油副社長・日本地質学会会長などを歴任しましたが、平成13年4月に没しております。
 伊田一善氏とも交友関係があり、そのことも契約成立の力となったようであります。
 それから6年間、石油資源開発株式会社により豊野鉱区内の地質調査が行われ、昭和41年10月22日に第一号井の掘削を行うこととなりました。
 平一と北原猪義、麦林楢次郎が開坑式に参列して、万感の思いの上で出油を祈願いたしました。
 然るに、如何なることかその願いは神慮に叶いませんでした。ボーリングが1千メートルに達した段階で、松代地震が発生したために掘削の継続が不能となり、掘削中止となってしまったのです。
 何故か、その当時の記録が見当たりませんが、平一の落胆、関係者一同の悲嘆は察してもあまりあるものがあります。
 以降、太源石油の関係者は第2号井開坑を願って交渉を重ねました。第三十六話でお話しした「北原猪義が並木の手形の裏書をした」その理由は、並木にその働きかけを依頼した見返りでありました。然しその甲斐もなく、北原猪義は昭和51年没しました。
 叉、会長の簡牛凡夫も昭和48年5月その生涯を終えております。
                     完