物理降霊会の風景と、私が助手を務めた実験会 |
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物理霊媒・竹内満朋の降霊会には三つのパターンがありました。
第一は、ローム太霊が崇高な太神の指示により、第二次世界大戦後の地球の混乱を救済するために、今迄に人類に明かされなかった神霊界と人間界の秘奥を講話するもので、
中央区新富町にある竹内満朋の活動拠点「紫光会」で、一般会員を対象とした初級編と、少数の幹部だけが出席を許された上級編がありました。
初級編は、その100回分が「ローム太霊講話集」として昭和45年に霞が関書房から発売されました。
一方、上級編は、その内容が高度・難解であるがために、幹部達の手で正しく世に伝えよとの指示があったことにより、初級編の様に公開されることがなく、そして今は、託された幹部達全てが他界しております。私が出版を進めている「最後の物理霊媒・竹内満朋の降霊会で、ローム太霊が講話された死後の世界(神霊界)の研究」は、それらの意思を継承したものであります。
第二は、参加する会員の主護霊もしくは主支配霊が、それぞれ守護する会員に霊言を垂示する主護霊会で、三鷹にある竹内満朋の自宅・紫風苑を初め、都内数か所で月例開催されました。
第三は、神霊の存在を知らしめるために様々な物理現象を起す実験会で、其れに添えて、ローム太霊と隼人霊神を初めとする霊団の神霊達が、種々訓話をされた会でありました。
私は昭和30年初頭から昭和の終わりまでの30年余、紫風苑で開かれた主護霊会に参加しておりましたので、その有様をご紹介します。
降霊会は6畳の和室で、床の間にカーテンで半畳ほどのキャビネットが設けられ、その中に椅子が置かれています。前面には、神社で使われている八足と呼ばれる白木の机が、
その上に厚紙で作って夜光塗料を塗布したメガホンが置かれておりました。
その他には、霊媒を統一に誘うためのレコードと、霊言を録音するためのテープレコーダーがあるだけでした。因みに、テープレコーダーが普及しない昭和30年代は、各自が暗闇の中で霊言を記録し、後で読み合わせをして持ちかえりました。
通常、参加者は10名ほどで、“さにわ”と呼ばれるリーダーを中心に、キャビネットの前に膝を突き合わせて正座します。竹内満朋がキャビネットに入って椅子に座り、サイダーを口に含んで手拭いでマスクします。そして、部屋と隣接する廊下などの全ての電気が消されて漆黒の闇となり、僅かに目に映るのは、夜光塗料を塗布したメガホンだけとなります。
“さにわ”が神道の祓いの祝詞を奏上し、全員が唱和します。祝詞が終わるとローム太霊の“レコード〜”と言う声がかかり、竹内満朋が好むトロイメライがかけられます。このレコード係は、もっぱら私の役目でしたが、暗闇の中での手探り作業なので、いつも緊張して務めたものでした。
メガホンがするすると空中に浮揚して停止し、“おーす”というローム太霊の声でレコードを止めます。“さにわ”が本日の 降霊会のお礼を述べて、新しい参加者がいる場合はそのことを報告します。
“今日は良く来たの〜、お前は---”ローム太霊の声は、竹内満朋のそれに、張りと透明感と何とも言えない温かさを加えたもので、語尾が“何々で〜”と言うように、独特のイントネーションがありました。
そして、停止しているメガホンがするすると降下して、新しい参加者の肩をポンポンと叩きます。私が初めて参加してからもう半世紀の歳月が流れましたが、その時の、何とも言えない温い感触が、今でも懐かしく思い出されます。
そして、参加者一人一人の主護霊、または主支配霊の霊言が垂示されます。
「人間は年に関知することなく、いかなる所においても機会を得ると言うことを忘れては相成らぬ。それが人生の良くなるか悪くなるかの分かれ道である。よって同族は良し、同族に有らざる力において、千変万化の花びらを拾えばよいのである−。」
これは、私が31歳の時、突然、当時勤務していた株式会社綜研の名古屋支社長を命ぜられて赴任する時の、主護霊・平沢春良霊神の霊言の冒頭であります。
意味は“人間は年齢に関係なく、一生において与えられた機会に運命を好転させるチャンスを得ることが大切である。お前は、父とか兄とかの開運に便乗してチャンスを掴もうと思ってはならない。自身の力で運命を開いて行け−”
霊言は往々にしてこの様に難解であり、その解説と指導を私の父小泉平一は“三光太源会”の名の基に行っておりました。
私の三光太源文化研究所は、その名称に因んだものであります。
以上