小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
平成30年1月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第七話
第七話 「平一の誕生と両親・親族について」
明けましておめでとうございます。今年もスピリチュアルエピソードを宜しくお願い致します。年の初めに、平一の誕生と両親や親族のご紹介を致します。
第一話「若き日の武勇伝・タクシーに撥ねられたら空中にとびあがってー」でお話ししたように、平一は明治39年11月1日東京市京橋区木挽町1丁目6番地で小泉商会を経営している小泉益太郎と花の長男として生まれました。
小泉家はその家系図を関東大震災で焼いてしまったとのことで詳細は不詳ですが、清和源氏の武田氏の系統で、山梨県北巨摩郡に昭和30年まであった小泉村がルーツとのことであります。小泉の先祖が何時頃江戸に出て来たかなどは記録がありませんが、平一の日記の中である彼岸の祭の際に、「汝の5代前の先祖で麹町に住んでいた弥吉だ」と名乗る先祖に会った記録があります。
祖父の平補に子供が出来なかったため、どの様な縁かは分かりませんが、岐阜で生まれた高木益太郎と、溝口の柴崎家の長女花を夫婦養子として迎えました。しかし益太郎夫婦には晩年になるまで子供が授からなかったため、花の妹の嫁ぎ先の水野家から寅之助と云う養子を迎えました。ところが平一が生まれたために養子の寅之助は行き場を失い、非行に走って養子縁組解消となり若くして没しました。そのために、水野家との間に因縁が発生してしまい、その結果、後年、平一が託された使命に立ちふさがることとなってしまいました。
益太郎には何人もの兄弟がおり、戦前、小泉商会が盛んな頃はその家系の親族と親しくしていたようですが、昭和30年代になってすっかり途絶えてしまいました。
生母の花は大変な親孝行で、花の父が大病に倒れた時、その回復の願掛けをして、寒中の深夜50日の宮参りをして満願の日に神前で倒れて意識を失ったところ、山伏に助けられて秘伝の灸を授けられました。その灸を父に施したところ全快したとのことで、小泉に嫁いでからも人々に無償でその灸を施し「人力車でようやく訪ねてきた人が、その灸のお蔭で帰りは歩いて帰ったことも度々あった」と平一が語っておりました。
又中々の美人で、その題名は不詳ですが、明治の文豪泉鏡花の作品に登場しているとのことであります。ところが、施した灸が吸い上げた病魔を祓う方を知らなかったため、大正9年平一が18歳の折に病没してしまいました。
平一が源心霊神の計らいにより、花の御霊と再会した時のことは、私の著書で紹介してありますが、平一は「あちらの世界では、お袋の方が親父より霊格が高い」と云っております。
一方、小泉商会は益太郎の代には数十名の店員がおり、詳細は不詳ですが、一時仙台と神戸に営業所を設けて貿易の仕事をしていたとのことであります。ところが柳生と云う取引先の保証をして引っかかって大損害を被り、株式会社を合資会社に格下げして大幅に縮小したとのことで、私が生まれた昭和10年代には、もっぱら段ボールや縄、パッキンと云う荷造りの際の緩衝材を取扱い、数名の住み込み店員と、水野の当主などが通いで仕事をしておりました。
花が他界して家事と店員の面倒を見るためもあり、益太郎は近所に一人住まいをしていた小野塚まさを後妻に迎えました。
小野塚家は幕臣で江戸幕府が瓦解して色々と苦労した様であります。明治2年に生まれた長男の平吉は、士農工商の序列から江戸名残の細工師の許に奉公に行ってその親方になりました。終生、市井の一職人として無名に終わりましたが、昭和天皇がご生誕の折、全国の細工師に象牙のおしゃぶりの公募があり、それに入選したことをひそかな誇りとして、九十の齢を終えるまで鑿と槌を手放さず、竹や象牙などで色々な細工物を作っておりました。
平吉は長男の昌吉を始め二男の安二郎、長女の久、二女のさき、三女の琴、戦災で死亡した四女の千世子と子宝に恵まれました。晩年には、それらの道具と材料を包んだ風呂敷包みを手にして、1ヵ月おきに娘たちの家を訪ねて宿りとし、縁側で日がなニコニコしながら仕事に励み、家を去る時には「子供達に」と云って幾ばくかの小遣いを託すのが常でした。それが嬉しくて、「お祖父ちゃん今度いつ来るの」幼心によく母にそう尋ねたものでした。この祖父の存在が、私が株式会社綜研情報工芸で行っているささやかなメセナ・「我が国の伝統的工芸品普及促進支援活動」の所以となっております。
その末の妹仲子は棋士廣瀬平冶郎に嫁ぎ、その娘とみは戦前三井銀行の頭取を務め、戦後乞われて初代ソニーの会長を務めた万代順四朗と結婚しております。
まさはその小野塚家の長女で、お寺を始め何回か嫁いだにも拘らず縁が繋がらなかったようで、実子を置いて家を出る悲劇もあり、平一が「時々、嫁ぎ先に置いて来た子供がお袋に小遣いをねだりに来て、親父に遠慮しながら渡していることがあった」と語っていました。
子供の頃の平一の話はほとんど聞いたことがありませんが、跡取りの一人息子として気ままに育てられたようで、自分の言わば我儘で商業学校を中退しております。しかし、それにしては歴史や古典に明るく、難しい啓示を解読したり、荘重な文言での祝詞を創る力をどのようにして培ったのか疑問として残っております。
そして、私の母さきが小泉家に嫁いだのはこの義母まさの縁であります。始めに三女の琴が行儀見習いとして小泉商会に奉公して番頭格だった従兄弟の水野紀一と結ばれ、次いでさきが嫁いできました。「叔母さんがお嫁に来て忙しくて大変そうなので、お嫁さんに来て上げたの」後年、平一が他界後、脳梗塞を患って童心にかえった母さきの口から、そんな言葉がこぼれたことがあります。昭和9年、益太郎が没した2年後の事でした。
完