小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話L)2024年7月


令和六年七月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その5

 然しその霊宝の使い方は、力相応にしか使えるものでは無い。又神の恩慈で賜る霊宝は、自身の資格相応のものを出ることはないのだ。だから資格の向上を求めなければ、賜った霊宝も力も、光を増すものでは無い。
それと反対に、その恩慈の賜物である替えがたい宝を、神によって取り上げられてしまうことがある。心すべきことと思う。
 取り上げられることによって一生の運命が狂うし、下賜されることによって一生の運命が、金にもダイヤにも代わって行くものである。しかし、余程のことが無い限り、そう云う宝は、めったに頂けるものでは無いのだ。
 皆の行業が神の御心に叶うなら、必ず役日の行法に仕える時に、賜り物がある筈である。そしてそれを自身の眼で、手に取る゙様にハッキリと見えるであろう。そうして、霊宝の力を現象の上に、悟ることが出来るのである。
 然しその霊宝を自身で確認し、認識すると否とに拘わらず、各人の人間は、実に大きく変化してきているのだ。石門の徳は、自我の強い鼻柱を折られて人間が丸くなり、何事にも拘るという愚かなところが賢くなり、暗い人間が生まれ変わったように明るくなる。
 非力が何時しか力を蓄え、利己的な弱点や見苦しい人間の欲が浄められて、何時しか本当に世の為人の為という立派な心の持ち主になった。そして生来貧相な人間が、物の力を与えられる様になると云う、これこそ洵に顕幽を貫く大道というものの徳でもあり、導かれた道の徳でもあり、それこそ賜った霊宝の力でもあり、徳でもあるのだ。  
 神霊の実在を知らず、神、霊、幽の界の実相を知らない世人にとっては、まるで夢のような話としか思えない事であろう。
 では、本当の霊宝はどう云う時に貰えるのか、それは自身生来の霊格が更新された時、物の格が更新された時、術が完成した時、隠善を積み上げて神の意に叶った時等いろいろあるが、いずれも神の認識された印である。
 その他に、神から嘉せられて頂戴したものや、恩慈によって賜るものがある。そしてその霊宝は、自分の霊体や現体に佩用せられているのである。現界の勲章には光が無いが、それらの霊宝は勲功の重さに従って、燦然たる光を放ち、?を放っているものである。
 此処では人間の肉眼では見ることの出来ない霊宝の話をした。しかし皆はそれと同時に、目に見える霊宝も授けられている。それは皆の術の中心をなしている水晶であり、槌であり棒である。その他の術の用具である。
 この物があって、初めて汝の術は術になるのだ。人の命運を予見することも、人の病を癒すことも、宇宙の太陽圏内で起こったことを予知することも、人間の明日に勇気と光を与えることも、また物質を引き寄せることも可能であると云われている。その術の用具こそ、何億の金にも代えがたい無比の霊宝であることを、宜しく認識すべきだと思う。
 何故、術の用具が霊宝なのだ。易を立てることが術とするならば、易に必要な算木や筮竹も霊宝だと云うのかと疑問が出てくる。筮竹や算木は、易を立てるのには必要になる用具であることは当然であり、剣術を使うには刀が必要な用具であるのと同じである。しかし、それら一般の用具と霊宝とは、似ても非なるものであって、決して同一に語られるものでは無い。
 皆が術に使うために、神霊から授けられた指示の用具は、それを対象として必要な呪文や真言が、幾万、幾十万回、幾百万回も込められ、そのための行が捧げられて、実早、単なる一物質ではなくなってしまったからである。
 物質であって物質でないと云うことは、その業の功徳によって用具が何時しか自光してきたからである。そして真の霊宝としての資格が伴って来たのである。
 ここで啓示の解釈という問題に触れたいと思う。私に出る難解な啓示、神託を本当に解読してゆくということは、決して誰でも彼でも出来る仕事ではない。それにはまず神からその命が与えられ、その力と術とを持っている者では無い限り、成し得ることが出来ないのである。
 何故ならば、それは前古未聞のものであるからである。其れだから、解釈も共に前代未聞と言えるのである。
 洵に偉大な命と云うべく、それに相応しいい格を与えられていることは当然である。しかし、そういう人というものが、世間のあちこちにいるというものでは無い。
 況やそれは、術法の開祖となっているのである。故に、開祖が世に二人いる筈がないのである。開祖自身、人を選んで解釈の法を教え、まずその道を授けない限り、其の術を継ぎ得る者は、これまた世に出ない道理となる。
 凡そ、世の中では相手よりより以上の格を有し、力と天分が数倍勝れば、その人達へ道を教え、法も術も指導することは出来る。然しその人間の命を指導することが出来ても、命そのものを侵すことは出来るものでは無いのだ。
 或いは又、力ある人がいたとする。その力を以てすれば、解釈という仕事の領域の中に、ある程度食い込むことは出来るであろう。然し開祖の力の半ば以上には、命無き限り困難なことである。
 それはどういうことかと云うならば、三分の解釈、四分の解釈は出来るであろう。五分も或いは可能かもしれない。けれどもそれ以上は、一歩も足を踏み入れることが出来るものではないのである。何故ならば、それ以上の解釈は単なる力では無く、完全に術の領域に入るからである。即ち、その命にある開祖自身の術に依るにあらざれば、解くすべが無いからである。
 私に出る啓示が未聞と云われる所以は、その神託の形式も未だかって聞かざるものであり、文そのものの内容の荘厳も、洵に前古未聞であって。神、霊、幽、現の実相と共に、偉大なる神の秘や、珠玉の大教が漏らされ、示されているからである。かつ叉、これは高き神々の御旨であり、高き神霊達のありのままの御言葉の文であるからである。

続く