小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第三十四話@)2021年2月


令和三年2月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第三十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第三十四話

平一が奏上した祭文・奉献の文について


その1 平一の神から授かった文作りの力について

 前話でお話しした様に、平一は生涯を通じて百柱にも及ぶと推察される諸神、諸霊に拝謁し、数百もの啓示、霊言を拝受いたしました。
 その多くは、三十二話でご紹介した様に荘重で難解な漢語により、ある時期まではもっぱら麦林楢次郎の手によらなければ、其の文意が解読困難でありました。
 然し晩年、後ほどお伝えすることでありますが、麦林楢次郎との別れが生じ、以降、自らが2冊の分厚い漢語辞典、一冊は門下の医師桑原時雄から、時雄の難病を治癒させたお礼として贈られた講談社の大判の「大字典」(2.850ページ・定価4千3百円)、今一冊は富山房の「詳細漢和大字典」(2.400ページ・定価千八百円)を繰って解釈せざるを得なくなりました。
 しかし、それは主護霊の工藤藤嗣霊神が解読することを許され、そして背後の神霊が助力されたお蔭と思われますが、それ以降は支障無くその任を果たし、神意を理解すると共に門下を指導いたしました。
 併せて、平一は流麗で多様な語意を駆使した、秀でた文章力を持って居りました。それをどのように練磨したのか、私が幼い日に平一に学校のことを聞いたところ、好きな学科は出来が良かったが嫌いな学科もあり、つまらないから途中で辞めてしまったとのことで、恐らく好きな学科は国語、古文と歴史、嫌いな学科は理科系統だったようであります。
 というのは、私が木挽町の京橋小学校1〜2年生だったころ、毎夜、平一は母さきと私達3人の兄弟を茶の間に集めて、祖先である清和源氏の祖・新羅三郎義光公の事績を初め、源平盛衰記や太平記等の話をして呉れました。
 「落花の雪に踏み迷う、交野の山の桜狩り。紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れー」平一が度々そらんじて聞かせて呉れたこの太平記の道行文のことが、七十余年経った今でも懐かしく耳に響いて参ります。
 当時の事なので、恐らくは中学校辺りを中退してしまったようであります。そして、後年、私の背後霊になった祖父益太郎の元で、若旦那としてひたすら家業にいそしみ、以降、心霊研究の道に入って浅野和三郎に師事するまで、特別に誰それの指導を受けて勉学した様子がなく、蔵書もそれほど多くありませんでした。それでも、残された神霊日記や三光太源などで講義した記録などは、流麗で多様な語意をちりばめた文章が達筆で書かれております。
 そして、取り分けて心に響くのは、平一が御祭りに捧げた祭文、奉献の文であります。
 平一は諸神、諸霊の恩寵にお応えするために毎年数多くの御祭りを執り行い、又参列致しました。そしてその都度、古文にのっとり、流麗な漢語をちりばめた祭文・奉献の文を作文して奏上致しました。
 明玄秘録を紐解くと、昭和24年11月〜43年11月までの19年の間に、紫光会主催により毎年4月に京橋会館で行われたローム大霊祭と、同様に11月に行われたローム霊団の諸神・隼人霊神を初め玉造霊神、重明霊神、姥姫霊神、岩崎霊神の五霊神を祭った五霊神祭の祭文それぞれの7回を初め、毎年9月17日に竹内満朋を初め神業の同志を招いて自宅で執り行った神業祭の祭文6回がありました。
 それに続いては、毎年4月に三光太源の会員を連れて妙義山に登り、その昔、初めて乗天坊霊神に拝謁した第4石門を詣で、そして妙義神社の神前で執り行う妙義大神と乗天坊霊神祭に6回と続いております。ちなみに、この御祭りを妙義神社の神前で行うことが出来たのは、門下で住処の地元乃木神社の禰宜を務めながら、国会議事堂の中にも治療の拠点を持っている整体師青木謙悳の伝手によるとの事でありました。
 そのほかには、1月8日の三光道大神の大祭、11月1日の誕生祭、1月9日の三光太源新年祭、7月15日の祖霊祭、そして昭和38年2月24日には、同年1月5日に没した次男道雄の50日祭の奉献の文等々併せて37の祭文、奉献の文が残されております。
 次回は、それらの中から幾つかを選んでご紹介することと致します。