「夭折した次兄道雄が、三度私の元に−」 |
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「もはや戦後ではない」、昭和31年度版経済白書のこの言葉で始まった、本格的な高度経済成長の波に乗って、私が職を得た椛詩統計研究所と言う集計機関は、創業者に代わって陣頭指揮を執る、水野正道氏という卓越したリーダーの元で、進化、膨張を続けて行きました。
その直轄にいた私の仕事は多岐に亘って多忙を極め、毎日が夢の様に過ぎて行きました。その様なことから、何時しか、道雄兄のことを思い出すことが少なくなりました。
そんなある日、麦林楢次郎さんが父の元を訪れました。京都大学の桑原と言う先生から届いた、道雄兄の死後の消息を伝えるためでした。
私は桑原先生が、どの様な方なのか全く知りませんでしたが、麦林さんの親しい友人で、不治の病で苦しむ道雄兄の無聊を慰めるために、生前中に手紙で引合せて頂き、以降、道雄兄は手紙を通じて色々と教えを乞い、先生もその才を惜しんで、親身になって対応して頂いたとのことでありました。
その手紙によると、レンガ色のジャンバーを着た道雄兄が、峨峨と連なる峻嶺を、杖を突き、真言を唱えながら巡って行を重ねている姿を、幾晩も幾晩も夢で見たとのことでした。
レンガ色のジャンバーは、生涯、背広とネクタイを締める機会が無かった、道雄兄の言わば正装でありました。そして、未だカラー写真が普及していなかった当時、桑原先生は、あるいはジャンバー姿の写真は見たことがあったとしても、その色迄知ることは無かったと思います−。
それから、どの位の月日が流れたかは茫漠としておりますが、ある晩、やはり寝しなに夢を見ました。そのジャンバーを着た道雄兄が、ニコニコしながら玄関から入って来たのです。
「道ちゃんが帰ってきた!」私はそう叫びました。はっきりした記憶はありませんが、私の後ろに父と母が居たようでした。
私は、生前中の道雄兄の、何時も小遣いに不自由しているのを思い出して、ズボンのポケットから財布を取り出し、確か五百円札で4枚・二千円を「道ちゃん、これお小遣い」そう言って渡しました。
「ありがとう」、にこにこして受け取ると「これからちょっと遠くに行くから、暫く会えないよ」そう言って、軽く会釈して玄関を出て行きました。
そこで、パッと目が覚めたのでした。
それから十余年の歳月が流れたある日、長い修行の旅を終えた道雄兄の、三度目の訪れがあったのです−。