小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第2話(その1)2013年6月


スピリチュアル エピソード 第2話              平成25年6月



2度にわたる自動車災害を免れた私の体験談


その1 「お袋に小遣いをやれ―」


  これは昭和37年頃、今から50年も前に私が体験した実話であります。

 当時、私は恵比寿にあった綜合統計研究所・後年綜研と社名を変えた市場調査機関に勤務していました。東京オリンピックを数年後に控えた高度成長の時代で、私はまだ20代後半の若さではありましたが、総務主任という役職にあり、今思い返すと多忙の日々が夢のように過ぎ去ってゆきました。

 今でいうクライアント・仕事の発注先は、霞が関を中心とした官公庁と諸団体、当時は銀座にあった電通さんや日比谷の朝日新聞社さんなどで、役員や書類のデリバリー用に、ブルーバードやライトバン等数台の自家用車がありましたが、社員の営業用として、当時通産省の国民車構想に呼応して発売された三菱コルト600を1台購入しました。

 リアエンジンで空冷式のためか、冬場はエンジンの掛が悪く、しばしばバッテリーが上がって往生しましたが、価格が低廉でリッター当たりの走行距離が長い経済車で、車体がコンパクトなために運転がし易いので、社員に人気がありました。

 車両の管理を担当していたこともあり、勤務が夜分に及ぶ時は、この手軽なコルト600を運転して世田谷の自宅に帰り、朝は恵比寿駅で社員を数人拾って出社するのが常でありました。

 そんな冬の日、朝食を済まして鞄を抱えて玄関で靴を履こうとした時でした。

 「お前、これから車で行くのか―」、その声は耳で聞いたのではなく、頭の中に強く浮かんできたのです。「はい、出かけます」「それではお袋に小遣いをやれ」「はい」。そんな問答がありました。

 丁度母が玄関までまで見送りに来ていました。財布から確か千円札を取り出して「お母さん、お小遣い」と言って渡すと、「ありがとう」にこにこして受け取ってくれました。

 危惧したエンジンが一発で掛り、赤堤通りから小田急の梅ヶ丘の踏切を渡り、環状7号線とクロスする宮前橋の交差点に入る時でした。何台もの対向車がクラクションを鳴らすのです。「おかしいな、なんだろう」ふとバックミラーを見ると、車のバンパーから白い煙が出ているのです!

 びっくりしました。兎に角、交差点のど真ん中で車両を止め、エンジンキーを回しましたが、どうしたことかエンジンが切れないのです。慌ててトランクを開けると、わっと炎が、もお、びっくり−。

 幸いなことに、交差点の角に大きなSSがあり、従業員の方が二人、大きな消火器を2本抱えて駆け付けて、無事火を消してくれました。

 駆け付けてきた販社のセールスンが車を引き取り、原因不明のままに車両は修理されました。この様な事故は私が処理する立場にあり、実損がなかったことと、欠陥車が社会問題になる以前のことなので、たまたまの事故として、取り立てて問題にならずに済みました。そのためか、何か夢でも見ているような気持ちでおりました−。

 暫くして、会社から車で家に向かってその交差点を通りかかった時、はじめて愕然としたのです、あの事故がもし別の場所で起きたら、私はどうしただろうかと。

 細い道ではありませんが、淡島までSSはありません。その途中で気が付いたら、あのままだったらガソリンに火が回って車が炎上し、場合によっては近隣にまで火災が広がり−!

 「定められた災厄は必ず来る。しかし大難が小難に、小難が無難になることはある。人間の行為が主護霊や背後の神霊の力を倍加させて、そのようになるのだ−」と小泉平一は言っておりました。

 「お袋に小遣いをやれ」あの声なき声は、今でも頭に浮かんで参ります。