小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話M)2024年8月


令和六年八月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その6

 暑い毎日が続きますが、皆さんお変わりありませんか。今回の課題は、平一が特に力を入れて門下に説いているので、まだまだ続きますー。

 実に神、霊、幽、の三世界は勿論、現界とはその次元を異にして存在しているけれども、この三世界の事象は全て人間の理解を超えた存在であるから、その実相を示して道理を教えんとするも、告げるに言葉が無く、表現するに亦色もない。
 このような至難の中から、神霊は少しでもその秘を説いて人間に判り易く教え。かつ悟らしめんと努力しておられるのである。
 しかも私という人間を選び出されて、神霊の真の媒体とする以上、少しでも人間の潜在意識に雑念が混入していれば、その偉大なる神の経綸を汚すことになる。そこで神霊は、石門六十六門という苦行道をお与えになった。それにより心身の贖浄と私自身の術を指導されて、それを高度のものとせられたのである。
 そうであるから主護霊は、これ等の啓示や託宣の文について、このように霊言に告げられたのである。勿論、霊媒者竹内君は、私の啓示については何も聞かされていない、当然である。

 昭和31年5月23日紫風苑の斎庭における霊言
 現象−直接談話心霊現象 霊媒竹内栄一
 主護霊 工藤遠之郷藤継霊神 霊示
 『−−自身の中の文の中に訓を出さず、訓の中に言葉を出さず、それそのものにあるところの存に於き、自身即ち人間の想像を加えることを許さず。そは即ち雑念なるが故――』
 この霊言はどう云うことを表に云われ、その裏にどんな意義を秘められているかと云うならば、それは次の様なことになる。
 『汝自身を通して出る神の言葉、即ち啓示、託宣の文には、汝自身は勿論の事、誰人と雖もこれに訓を入れたり、又釋の言葉を入れることを許さず。即ちこれを訓釋することを、神から許されている者以外の者をして、訓し釋せしめてはならないのである
 神から許されている者とは、その命を受けている者を云うのである。尚叉、誰人と雖も人間の想像を加えることを許さず。これは又、汝とて同じである。
人間の想像は、人間の雑念であるからである。何故この様に戒めるかと云うならば、神、霊、幽の世界にあるがままに存在する所の、それそのものの存とも申すべき、真実純粋の神の文であるからである。
汝を通して出る文こそ、その啓示なるが故に、命にあらざる者を以てしては、正しき訓を得ること能わず、人間の想像、人間の知恵、単なる人間の学力を以て訓じ釈するならば、啓示、託宣の尊厳を傷つけることになる。
 何故なれば、人間の言葉に非ざる神の真実の言葉を、人間の力のみでは正しく訓じ、釋をすることを神は許されないし、それは到底出来る事ではない。
然らば如何にして、これを訓じ釋せんとするか、それは神人合体の術に他ならない。故に、その格を以てその力を養い、天よりその命を享け、積年その行を修した者でなければ不可能である。
 命と云うものを宜しく悟って、その条件に叶った者が何人であるやを、千古の神の秘と云われる白羊の秘の中に、心眼を正して探り、その霊言を心して読みゆけよ。』
 以上の様な意味である。けれども世間の人達に訓釋、解読を試みるなと云うことではない。それは人々の自由である。試みることも決して悪いことではない。ましてや、この「それそのものの存」と云われる神の文の研究ということは、実に叉重大事に属することなのである。

 然し、これが命と格と術を持たない限り、何人と雖も訓読の正解は、決してあり得る事では無いのである。命の権威と云うものは、そう云うものなのである。

 それでも、そんな馬鹿なことはない。誰でも出来る、ただ力の問題だと思う人がいるならば、その人は本来の顕、幽の道理に暗く、真理に無知であって。所謂命なるものの意義を、覚ることが出来ないからである。

 命なればこそ、それに必要な術を授けられるのである。何故ならば、かつてヘルマン霊神は、麦林その人にこの様に問われたことがある。

 この難しい啓示の解読をしようとするには、まず解読、訓読に必要な法、即ちノリと掟がある。道がある。術が必要であることは勿論のことである。麦林よ、汝はそれをどの様にして会得しようとしているか、と訊問された。

 そして霊神はその法を、その道を、その術を、この様に教えて行かれたのである。それを示すなら


     啓示   ヘルマン霊神 垂示
昭和23年10月6日


    じょう、の (はるかに遠く、且つ巡り巡っていて困難を極めているのが、仙界の大法である。)
 そのを正して (その大法の解読を正しくして)(疑問を克服し) (法を解く)(のりと術を) はす (麦林、汝に訊問するのである)、じょうの (離魂=肉体から霊体を離脱分離すること、離脱出来てこそ神人、霊肉が合体出来る。じょう浄とは悪因縁を浄化する禊ぎ行、三昧=精神統一の行、俗に云う鎮魂帰神の行) の(へその裏側、へその奥にある)(ハラワタと心とを)を浄めて、(まごころ)を込めて訓(訓義)を入れよと伝えよ。(小泉よ、汝から以上の事を麦林に伝えよ。)
    (この霊神のこの啓示は、小泉自らが授けられたものであって、この解釈は麦林自身がしたものである。)

 神仙界の大法というものは、実にその理は玄妙にして高遠、道は霊妙にして深遠、高さから深さに巡り、深さから高さに巡るというものである。
 これを解釈することは、洵に容易ならざる困難を極めた問題であるが、この大法の示される啓示を正しく解釈して、疑問を克服し、そしてその法を完全に解くための、ノリや掟やその術を、どの様にして会得しようとするか。麦林ょ、汝にそれを訊問するものである。その様にヘルマン霊神は訊はれた。
 なぜ訊問と霊神が言われるのか、そこをよく考えねばならぬ。それは 尋問(尋ね問う)ではない。やはり訊問(調べ正す、問い正す)でなければならない。
 即ち憲術を訊うということは、その裏に自らの命(使命)と、その資格(命に関する格)に対して、心の用意は宜しきやととはれたのである。何故なら、命と格に対する本当の自覚というものは、その悟りを求めるために、自ずから憲術の何たるかを覚って行かなければならないからである。

 そこで霊神は、この時改めて、その法と術と道とをこのように教えられた。
 じょう浄の三昧を持って法とし、離魂を以て術とし、臍裏の腸裏を浄めて誠意を捧げる。これが道であると教えられた。即ち、心の行を以て浄魂し、誠を尽くすことが道であると教えられたのである。そして、小泉ょ、汝から以上の我が啓示を伝えよと。                                 続く

                                               
) ヘルマン霊神が麦林よと呼ばれた方は、平一の畏友で長年平一の神業の同志だった、麦林楢次郎の事であります。
 麦林先生は神道並びに心霊研究の大家として知られ、長年に亘り公益財団法人日本心霊科学協会の常務理事を務められました。
 平一に直接高い神霊から下される、荘重な文語体での啓示、霊言に対して、それぞれの言葉に幾つかの漢字を当てはめて文脈を作り、その文脈を解釈することによって神意を伺うという、独特の解読方法を考案して、平一の神業をサポートしました。
 このヘルマン霊神の霊言は、その解読の術に対しての諭しであります。