小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第二十五話@)2019年7月


令和元年7月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第二十五話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第二十五話 平一の3人の子供と水子が

        一人、

        ところがもう一人水子がー


 その1 長男幸雄の生涯

 平一は4人の子宝に恵まれながら、第一子の一雄は流産でした。昭和7〜8年の事と思われます。母親のさきは落胆して、暫くの間キューピー人形を我が子の代わりに手放さなかったとのことで、キューピーを抱いた写真が残されております。
 そして昭和9年に長男の幸雄が、次いで二男の道雄と私が年子として生まれました。
 長男の幸雄は身体が一番丈夫で、小柄でしたが子供の頃は近くの公園の草野球では、もっぱらピッチャーを務めておりました。
 私より一年早く昭和19年に京橋小学校から世田谷の松沢小学校に転校し、昭和20年の終戦の年の春、私と二人で新潟県岩舟町の高砂屋旅館に学童疎開に行きました。小学3年生の私にとって、幸雄兄が一緒であることが大変心頼みになっておりました。
 松沢小学校を卒業して区立中学ではなく、昭和天皇の師杉浦重剛が設立した、地元にある日本学園に進学しました。そして、中学、高校を卒業して一橋大学を受験したのですが失敗してしまいました。
 そこで、三光太源門下の筆頭で石油開発の同志である北原猪義が経営する、六本木にあった婦人帽子の“オーシック”に就職しました。
 再度受験をとの志はあったようですが果たせず、その代りに、夜、近くにあった英語学校“リバティ塾”に通って英語を学び、かなりの語学力を得たようであります。
 “オーシック”に10年あまり勤務したある日、同じ六本木にあるシンガーミシン株式会社の前を通った時、ここが自分の職場だとの霊感を得て飛び込みで就職を依頼し、その英語力を買われて採用されました。
 シンガーミシンには当時都内に三十余の特約店があり、それらを管理する担当で10年程勤務し、最後は課長補佐と云う役職でした。
 幸雄兄は早生まれなので、私とは年齢で2歳、学年で3年違いでした。幸雄兄は口数が少なく、中学に入ったころから兄弟で遊ぶことが少なくなりました。
 しかし、両親に言われたのか、オーシックに勤務しだすと、私に毎月200円の小遣いを呉れました。家計が苦しかったために自由に使える小遣いが貰えず、年初めの年始に来る竹内さんや菊池さん達からもらうお年玉を、大切に大切にと使っていたので、大変嬉しく思いました。
 それでも、毎日帰宅が遅く、休みの日も出かけがちであることなどから、あまり話すことがありませんでした。 降霊会も両親と私が行っている三鷹の三光会ではなく、地元で菊池豊が主催し、豊が没してからは同じ地元で新聞販売店を営む川尻和人の家に会場が変わった一龍会に行っておりました。そのために、幸雄兄が主護霊からどんなことを云われていたのか、知ることがありませんでした。
 但し、感心したのはその信仰心と意志の強さでした。昭和三十年代は我々兄弟も両親を見習って毎月1日、十五日、月末とそれから任意に日を定めて禊の行をしました。私はその他に三日間だけ何んとか務めて、それでも主護霊から良く励んだと褒められたことがありましたが、真冬の禊は本当に辛いものでした。ところが、幸雄兄の居間のカレンダーには、いつも私の二倍、三倍も行の予定を示す赤丸が付いておりました−。
 私が昭和42年に勤務していた総合調査統計研究所の名古屋支社長を命ぜられて、6年程名古屋におりました。
 とある日、家から黒赤色の石片が送られてきました。幸雄兄が霊夢で、裏妙義の深山にある赤間と云う岩をひむろぎとして、下関の赤間神宮の大神が鎮まっているので、そこに行って赤間の大神を祭るようと教えられ、主護霊の霊言でもその様に言われたとのことで、地元の道案内の導きでその岩に辿りついて祭を行い、ご神体としてその岩を削って持ちかえり、三光太源の門下生に配布したとのことでした。そして赤間の大神は幸雄兄の守り神となったのです。
 一方、幸雄兄は三十を過ぎても一向に結婚する様子が無いので、どうしたのかなと思いつつも、幸雄兄の交友関係はほとんど知らず、友人と云うと大場さんと云う日光ぺンに勤めている高校の友人と、名前は忘れましたが京橋小学校の同級生で、錦糸町の方で電気店を営んでいる、知っているのはこの二人だけでした。
 女性関係では、一龍会の会員で平一の長年の知己である吉江茂の縁戚の女性が、幸雄兄に惚れて夢中になり、然るに本人は全く気に入らず、平一も反対したのですが当人は中々諦めずに、あれこれあって困り果てたことがありました。
 また、亡くなる数か月前、名前と知り合った経緯等は記憶に無いのですが、幸雄兄が若い女性を連れてきて両親と私に引合せました。
 私は嬉しくなり、その女性とあれこれ話をした記憶がありますが、その後、何故かその女性の事が幸雄兄の口から出ることはありませんでした。
 そして、昭和49年3月、私が名古屋から東京に転勤するのを待っていたように、健康診断で癌、しかも最も悪性のスキールスで最早手術も難しいと診断されました。本人はもとより、両親も私も、そして三光太源の門下生も皆一心に延命を祈りました。
 不思議なことに、さしたる痛みも無かったので、本人の希望で入院もせず、治療を浅草の桑原先生に依頼して養生しましたが、その甲斐なく、3か月後の6月14日、母のさきに抱かれて旅立ってしまいました。「お兄ちゃん死んでは駄目よ、死んでは駄目よ」とさきは懸命に叫びましたが、願いは聞き届けられませんでした。40歳でした。
 因みに、私も同じスキールスに罹りましたが、スビリチュアルのエピソード14話「何故だったんでしょうね。細胞検査をしたのは」でお話しした、主治医の佐藤先生が私の初めての胃カメラの時、何気なく行った細胞検査で奇跡的に早期発見されて一命を取り止めました。
 幸雄兄には赤間の大神と云う崇高な守り神が付いており、平一の神業の後継者として修行を重ねて来たのに、何故救われなかったのでしょうか。
 さすがの平一もその落胆は大変なものでしたが、それでも門下の人々に対しては、「これも神業のための東現への尊い生贄である」と、心を震わせながら説いておりました。
 葬儀には都内のシンガーミシンの特約店の全店主に参列して頂きました。しかし、家に連れてきた女性の姿はありませんでした。
 告別式が終わった後日、平一と二人でシンガーにお礼の挨拶に出向いた帰りの喫茶店で、平一が私にしみじみと、そして寂しそうにこう言いました。
 「お前に宗雄と言う長男に相応しい名を付けたのは、仏壇で拝んでいたら、今度の子供は宗雄だ宗雄だと言う笑い声が聞こえて来たので、その様に名付けたんだが、先祖はきっとこの運命を知っていたんだな―」こうして私は、全ての兄弟を失ったのです。
 ローム太霊は三光会の 降霊会で、10年間は御霊の向上を祈ってやれと言われました。
 そして其れから8年たった年の秋のことです。平一と神棚に向かって拝んでいると平一が「今、幸雄から知らせがあった。あちらの世界で嫁を貰ったそうだ。田端雪乃と云う、北海道の浦河と云う所で生まれて、若くして亡くなったんだそうだ。」そう云いました。
 「良かった。兄貴も嫁を貰ったか。」そう思って嬉しくなり、それから日々の祈りの中に田端雪乃霊人の名を加えました。
 後日平一の許に出現し「お父様、雪乃で御座います」と挨拶をしたとのことで「長い髪で品のある中々の美人だ」と云っておりました。因みに平一は門下の人々に、「あちらの世界で結婚すると、お互いに息吹を交わすのだ」そう教えておりました。
 その後、春秋の祖霊祭の折、私にも一二回、ちらっと髪の長く色白な女性の顔が見えたことがあり、あーこれが雪乃さんかと嬉しくなったことがありました−。