小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第21話2016年4月


 平成28年4月吉日


スピリチュアル エピソード 第21話

名古屋で氏神様に頂いたご加護の話



 私は32歳の時、当時勤務していた綜合調査統計研究所の名古屋支社長を命じられました。突然の事でした。そして、私は総務部門の業務主任から、主として官公庁諸団体のデータ処理部門の主任に異動したばかりで、全く異例の人事でありました。
 と云うのは、6年ほど前に開設した名古屋支社の当時の支社長は、大手広告代理店電通の
マーケティング部門から脱サラして、リサーチ機関を立ち上げて失敗したN氏で、同社幹部の要請で採用して、送り込んでいたのです。
 しかし、調査のスペシャリストとしては大変優秀な方だったのですが、とかく採算を度外視して仕事にのめり込んだために、支社は赤字続き、業務主任の私は若気の至りでそれを批判したところ、社長はそれを逆手に取って“では、お前やってみろ”まさしく後悔先に立たず、とんでもない結果を招いてしまったのでした。
 その時、社長は大阪に支社を開設する準備を進めており、N氏を大坂に転勤させる目論見を持っていて、後任の名古屋支社長の人選に苦慮していたので、私の発言は渡りに船だったのでした。人事は絶対です。それでも私の願いを入れて、肩書を支社長代理として、大阪支社長として転勤するN氏を、当分の間、名古屋支社長兼務の名だけを残すことにしてくれました。


兎に角覚悟を決めて、 降霊会で主護霊に報告しました。以下はその時の主護霊平沢春義霊神の霊言であります。
 「土地代われど、常に陸続き、親より離れて遠くへ行く、これまた人作りの神の愛なり。必ず自分がその土地にいて、その土地の氏神をまず念ずることが、自分を護って下さる一番のもとなり。
 産土は変わることは無い。氏神は現在の住所で常に変わるのである。如何なる土地に行こうと、その氏神に常に念じたなれば、悪?は来ぬものである。判らないときは此処の見守りの大神として念じる。必ず月に一回は挨拶に行けよ。どんな病気がこようともその氏神に念じておったなら、大概の病気は治るのだ。身体は資本である。それを良く身に着けて上手に行うのである。注文を取るにしても、困難なところは、そこの店の氏神を念じればうまく行くものであることを、よく承知せよ。
 暴飲暴食、常に人間はやる。それは親から離れた時に多いものである。又長ともなれば、人のおだて上げ、甘言、あらゆるものがある。正当なる判断において自分の背後と相談して、後は霊感によって処置なし行けよ。これが長たる者の心得である。宜しく神は常にある。どんなところでも守っておられるから、真言を唱え、神を賛美して行けばよいのである。その様に行じ行けよ」
 名古屋支社は名古屋市東区の車道にありました。社長の水野さんのお姉さん・林さんが名古屋の開業医に嫁ぎ、ご主人は早く亡くなってしまったのですが、土地が広いので、その一角に2階建てのプレハブの建物を建てて支社にしてありました。
 林さんは支社開設以来経理を担当して、私とは顔なじみでした。その縁もあり、以降5年9か月にわたり公私ともに大変お世話になりました。何とか名古屋支社長を勤め上げられたのは、この方のお蔭であります。
 名古屋支社には、林さんの他に、N氏の会社に勤務していた縁でN氏と一緒に入社し、名古屋支社に配属されたY君を始め、地元出身の社員が10名ほどおりましたが、皆20代の独身でした。
 業務内容はクライアントから発注される各種の市場調査の、主として実査と集計・計算業務の受託で、電通名古屋支社さんを始め中日新聞社、朝日新聞社、並びに東海テレビ、東海ラジオ、中部日本放送のマスメディア各社、そして中部電力、名古屋市役所などで、皆、名古屋市内のほぼ中心部に所在していました。
 赴任した次の日、Nさんは私を連れてご挨拶廻りをして、“ではあとは宜しく”と云って大阪に帰ってしまいました。


 何とか一息ついた日曜日、林さんに此処の氏神様を尋ねたところ,千種区今池の高牟神
社だと教えてくれたので、ご挨拶に参詣しました。支社から徒歩20分ほどの所にある高牟神社は、14世紀に建立された名古屋で由緒のある神社で、立派な本殿の横に7つほどの摂社と末社が並んでおり、日本名水百選に選ばれた井戸がありました。弁慶がこの水で産湯をつかったとも伝えられております。
 私は支社のすぐ近くにあるアパートに落ち着いたので、住所と支社とが同じ氏神様となりました。

 東京本社と違って、全てを自分で決断しなければならない日々が始まりました。そして一か月ほど経ったある日、大事件が起こったのです。
 事情が分からないままに、お引き受けしてはいけないプロジェクトを受注して、大変なトラブルとなったのです。
 当時はプロ野球の全盛時代、名古屋は中日ドラゴンズの牙城で、市民の8割は熱狂的なドラゴンズのファン、ラジオ局は競ってナイター中継の聴取率競争をしていました。対象は一般市民とドライバーです。
 そして後で知ったことなのですが、従来、東海ラジオさんは当社に、CBCラジオさんは電通さんに、それらの調査を発注していたのです。ところが、CBCの調査課長のMさんが、私の着任祝いだと言われて、ドライバー対象のカーラジオ調査を私に発注して頂き、うかつにもお引き受けしたのです。
 ところが数日後、今度は東海ラジオさんから、一般市民とカーラジオ対象の2本の調査を発注する旨お話を頂き、真っ青になりました。同時に、競合社の同種の調査をお引き受けする訳にはいかないのです。と云って、当時名古屋にある調査機関は、当社と、TV視聴率を主業務としたビデオリサーチの2社だけでした。従って対応する会社はありません。
 取り敢えず、大阪のNさんに電話したところ、九州に出張して不在、今と違って携帯電話の無い時代、連絡の取り様がありません。どうしよう、何とかしなければと、文字通り頭を抱えて目をつぶって、あれこれ自問自答を繰り返しました。
 すると、ぼやーっと高牟神社の本殿と、並んでいる末社、摂社の社が目に浮かんできました。そして、“4番目の社の神がお前を気に入っている。お願いに行くがよい”そんな思いがふーっと浮かんできたのです−。
 どうするのかと心配している社員達に“ちょっと出かけて来る”と言ってタクシーを捕まえて高牟神社の教えられた社に行き、事情をお話しして一心に祈りました−。


 眠れない一夜が明けて私は決意し、CBCラジオのM課長にお目に掛って、お詫びしてプロジェクトを辞退しました。M課長はあっさりと了解して頂き、心から安堵しました。“助かった!”その時の心情は、今でもまざまざと蘇ってまいります。
 東京に転勤する前日、高牟神社に参詣し、その社には日本酒の四合瓶を供えて改めてお礼のご挨拶をしました。
 それから四十数年、今年も当時お世話になった何人もの方々から、年賀状を頂きました−。
                                                               完