小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第二十八話C)2020年3月


令和二年3月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第二十八話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第二十八話

『平一を守護、結縁した歴史上著名な

諸神霊について』


その4 平一が竹内満朋の降霊会で結縁した

     諸神霊


 竹内満朋の物理降霊会には、この降霊会を主宰される満朋の主支配霊ローム大霊と、隼人霊神を中心とするローム霊団の諸神霊、並びに参列する各人の主護霊・主支配霊の他に、それらの人々に関わりの深い諸霊が降霊しておりました。
 平一の残された記録には、次のような歴史上著名な方々のみ名が記されております。
 その第一に挙げられるのは、竹内満朋の友人・漢学者高田修蔵の背後霊で、平家物語で平家討伐の鹿ケ谷の謀議が露見して喜界が島に流罪となり、その地で没したと伝えられている俊寛僧都であります。

 昭和21年11月3日の平一の心霊日記第5巻に次のような記録があります。
 「於、紫風苑 小泉・菊池・麦林・吉江・高田・山田
岩崎霊 『高田さん,さっき貴方に出られた方は俊寛です。(平家物語に記載するところの喜界が島における俊寛僧都なり)中々偉い方ですよ、いずれ出られるでしょう。本当にあの方の心境は大したものですね。』
 俊寛がどのような高僧であったかを、紫光会会長寺見文雄の主護霊・高尾霊神が教えた記録が昭和26年8月20日 明玄録上巻に残されております。 
 「如何なる世塵に包まるる共、親鸞の如き苦の中に自らの柔らかき体を捧げて苦にいる者もあり。日蓮の如き瓔珞たる体の主、自らの苦を取りて事なす自力の人もあり。その両面を持ち得たるは俊寛(俊寛僧都)なり。俊寛の遺蹟即ち天道に入る。道の向かう本は常に左右をとりて、常に我が意の存在を大地に示す云々。」
 続いて同22年3月3日には、以下の様な記録があります。
 「於紫風苑 小泉・吉江・山田・高田・足立・麦林
俊寛霊神 高田氏に向かいて
 『うけもちの世の月晴れ三日月の今日も三と日の春に入る。我孤島に居りし頃、今日この日いかにおりし。如何にも嬉しく泣きおりしかを思い出ず。
 孤島指して遠き沖に馳せ参ずるみたてのみ こ我に漕ぎ寄せず。幻二つあり。
 我磯に立ちて、何事の起こりしかを見つめて、一瞬の内に二人の童子現わる。右の者は右手にわかなし持ち(赤きぬさ)、左の手に白きぬさ(左手の者は)持ちて、こもごも我に問う。
 「汝この島に如何なる心にて残りおるや」我答えず。白きぬさ持てる童子我に言う。
 『汝大陸に入りて一歩も外に出でず。汝の心土に帰りたるか』と。我はしたりと答ふ。
 この日こそ今日のこの日 (三月三日なり)我が心汝家に帰りて、今宵よく熟知せよ』
 私の主護霊平沢春義霊神は、この二人の童子は不動明王の脇仏の「こんがら童子」と「せいたか童子」であり、俊寛の両脇を抱えて空中に浮揚して中国に連れて行った。そしてその後、俊寛はチベットに入って修行を重ね、その後にドイツに行ってバラ十字を起こしたと教えられました。詳しくはスピリチュアルエピソード第23話「主護霊が教えてくれた俊寛僧都の真実」をご再読下さい。

 次に挙げられるのは、江戸時代に雨月物語や春雨物語を現した上田秋成であります。
 上田秋成はその昔、竹内満朋の物理降霊会の常連だった小山内という方の背後霊だったようで、平一の心霊日記第四巻に次のような記録があります。
「昭和16年5月24日 竹内宅物理現象於いて 小泉・菊池・小山内・しげ子
 上田秋成霊の顔出現す。いまだ判然とせず。『我し上田、今現わさんとせしは我が面なり』
と、メガホンよりに非ずして直接談話なり。竹内におきし初めての現象なり。すばらしい進歩と言うべし。
 ローム霊『まだ少し難しい。上田だいぶ努力された。全ての異なる前、小さくも大きくも自分の身に色々事ある。国も一家も同じこと。ここで皆頑張りを必要なる。特に小山内、引き締めて進める偉くなる。上田力尽くしている―』」
 続いて心霊日記第5巻には次のように記されております。
 「昭和18年1月11日 TLC 小泉欠席 
 上田秋成霊『我常に思うことあり。今の時代は力なくして力求める者、より多き事を悲しく思う。ただ一つの髄より虫出でし、また更に髄に帰り来って精をむしばむ者多きを悲しく思う。
 水晶の中に糸を通すより安き法を教えられているご存じか。その糸は昔の諺の通りにはゆかぬ。ただ、念を送りても事はなり申さぬ。水晶ただ心の金剛石をもって穿つこと得るのみです。貴方方もこの金剛石とならむこと、我、年の初めに願う。髄を虫求む。虫とならぬ様心して事を致されよ』

 また、また、中国南北朝時代の高僧で往生論説を著し、浄土宗相承の祖として名高い曇鸞僧都の神霊が出現しております。
 前回、隼人霊神が麦林楢次郎に対して、「貴方の背後霊として元禄時代の有名な人(大石内蔵助)がついています」と教えられたことをお話ししましたが、その時隼人霊神は続けて、「その生前を指導したのは、中国の高名な禅僧曇鸞であった」と言われました.
 そこで、楢次郎夫人が「是非その方のお話を−」と懇願すると、曇鸞が出現して「生活のことは心配するな。汝の主人はいずれ名がなす」と諭されたとのことであります。

 武田信玄の軍師として名高い山本勘助は、生前同僚だった霊を通じて霊言を垂示しました。
 昭和16年2月1日の竹内宅の降霊会で、列席していた竹内満朋夫人の兄駒木孝二の主護霊川俣三四郎霊神が「今日は勘助が来ておる。勘助は知恵者じやから、聞きたいことがあれば何でも聞いてやるぞ。」と言われました。川俣霊神は生前武田信玄の家臣だったとのことで、山本勘助とは同僚だったのです。
 「人間、困難に出会った時は、どの様にすれば良いのでしようか。」そう尋ねた所、川俣霊神は「こと多きに至る時は、易きことから開けよ。こう勘助が言っておる。」と言われたとの事であります。
 詳細は、スピリチュアルエピソード第10話「武田信玄の軍師・山本勘助の霊言」をご再読下さい。


 なお、前前々回の「その1 平一を守護した諸神霊」の中においでになった楠木正成の謀臣・恩地左近霊神と邂逅した記録が見つかりましたので、お知らせ致します。
 心霊日記 昭和15年6月15日
 「日枝神社祭礼につき5日間修祓執行、背後の霊と称し恩地左近と名乗る神霊、霊眼に映ず。霊聴にて『来るべき日に備えて怠るなかれ。白雲を心とし、行く水を鏡とせよ』」