小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第12話(その1)2015年2月


 平成27年2月吉日


スピリチュアル エピソード 第12話 (その1) 


「ジンギスカンは源義経なり」の真実



その1 「ジンギスカンは義経なり」について



 月刊誌「ムー」3月号」(学研)に「牛若丸はアイヌの創造神オキクルミカムイとなり、やがてジンギスカンとなった!? 北海道の義経北行伝説を追う!!」との特集記事が掲載されております。
歴史書によると、源義経は兄頼朝と不仲になり、奥州の藤原秀衡を頼って平泉に逃れましたがやがて秀衡が他界し、その後を継いだ泰衡は、頼朝の脅しに屈して文治3年(1189年)衣川の義経館を襲い、義経は31歳で自刃して果てたとしております。その首は京の頼朝の許に送られましたが、当時からその真偽が問われ、諸説があったようです。
江戸時代になると、義経が蝦夷地に逃れたとの説が唱えられ、林羅山・新井白石・水戸光圀、果てはシーボルトもこの説の信奉者となりました。
この「ムー」の特集では、もっぱら北海道・当時の蝦夷地に残る、220カ所の義経ゆかりと思われる遺跡や伝承を紹介し、中でもアイヌの最高神「オキクルミカムイ」が、永らく「ハンガン(判官)カムイ」の別称で尊崇されたこと、幕史・近藤重蔵の調査ではハンガン(判官)=義経がアイヌ民族の神になった理由は,沙流川地域のアイヌを「外敵」から守った功績であること、この外敵とは恐らく朝鮮半島北東部にあった「渤海国」ではないかとしています。又アイヌ伝説によると、そのハンガンカムイは「軍事訓練を施した屈強なアイヌの若者を大勢従えて、他の土地に去って行った」とのことで、その他の地こそ「義経が成吉思汗になった地ではないか!?」と語っております。


大正13年に小矢部全一郎が「成吉思汗は義経なり」を上梓すると、日清、日露戦争を経てより一層中国大陸での勢力拡大を画する国策もあり、各方面に様々な議論が巻き起こりました。
私は父から子供の頃、しばしばこのことを聞かされました。そして、 降霊会で義経の家臣がその真実を話したこと、別の降霊会には静御前が出現して、小矢部全一郎に「よくぞ我が夫(つま)様の事績を明らかにして下された、とお礼を言った」とのことを覚えております。
父が残した資料の中には、この2つの記録が見当たりませんが、幸い、前者については「心霊現象を知る辞典 (春川栖仙編・平成5年 東京堂出版)の「直接談話現象」の章に、父が列席したその降霊会の記録があるのでご紹介いたします。



(1) チンギスハンの降霊と談話

霊媒萩原さんによっての実験の際、たまたま『自分は義経公の家臣として源平の戦いにも従事し、更に大陸に押し渡って主君、後のチンギスハンの偉業に参画した』と称し、名前は佐々次郎源良行と名乗るが、蒙古にあっては通称『ノノムリ』という。この霊魂が順々と源平の戦い以降、大陸に渡ってからの消息を物語っている。
この実験会には、その立会人として『ジンギスカンは義経なり』の著者小矢部全一郎氏他代議士田中善三氏も同席されて、直接談話は交わされている。しかも霊の物質化によって、ありし日の義経公も席上にみまえた。
次はその実験会の記録のうちの一部(昭和12年ごろと思われる)、主として小矢部氏に談話されたものである。

(2) 佐々良行霊人の直接談話

『小矢部氏(うじ)、我らその昔現(うつ)し世に在りし頃は、佐々次郎源良行と名乗りし者にてござる。我君様(義経公をさす)のお供仕り(つかまつり)、日の本の大稜(だいりょう)威(い)の先駆けとして遠く遠くまで西に東に駆け巡りし者にござる。然るに現し世の愚かなる輩(やから)ども、日の本のくに民が、ありし世においてかかる大いなる大稜威の先駆け致せしことも存ぜず、我が君様のご活躍の有様詳ら(つまびら)かになさんとも欲せず、小さなるまなこもて僅かなる一小国、一部分をもちて日の本の国民のことなりと致し居るは、われらも事毎に思い残りの次第に御座る。
小矢部氏、何とぞして我が君様の御事ども世に出したき事と存じ仕る次第なれば、何卒々々お力添えの程お願い仕る。
只今の現し世人共が、我が君の如き心構えだにおわさば、徒(いたずら)な戦いを致さずとも皇(すめらぎ)らが君の大稜威、四方に燦めくは申すまでも無き事なり。我が君のことども現し世人が存じ申さば、かっての遠き祖先の大いなる血潮の流れが湧き立ち申して、支那、蒙古は申すに及ばず、遠く世界に大稜威輝かすは容易(たやす)き事にござる。
小矢部氏,わが君様の血の流れを有(も)たるる貴方がたが、同じ血の流れを有(も)たるる方々と
集い,力を合わして何卒々々我が君様の御事績を現し、世人共にお知らせ致したきものにごさる。われら折にふれて、我が君の御足跡を残せし処々をお知らせ致す筈、何卒証拠の品を見出し賜るようお願い申す。
わが君様今宵お喜びなされて、皆様にお目にかかりたきとのことにござる。わが君様『オ
ノン』河畔におかれましてご即位あそばされた時のお顔に御座る。
(それより物質化現象おこり、列席者全員にチンギスハン、義経公の在りし日の面影明瞭に認められる。)



この直接談話が終わると、萩原霊媒の支配霊の梶光之霊が出現して、良行霊の談話を分かり易くするフォローをしています。その中に「蒙古の地には『クーロン』という地名があります。クーロンは九郎です----」と云う一節があります。この梶光之と云う方は生前中萩原霊媒の親友でした。第六話でご紹介した、竹内満朋と岩崎霊神の関係と類似しています。
余談になりますが、このノノムリ霊神(佐々次郎源良行霊神)は萩原霊媒の背後霊で、大峰山の神仙大峯大仙(大峯山開山の役(えんの)小角(おづぬ)の高弟)と共に、萩原霊媒の降霊会で参列者の様々な悩みや疑問に応えました。
萩原真は戦後「千鳥会」と云う名の物理降霊会の集いを主宰し、やがて名を瑞道と改めて昭和27年に「真(まこと)の道」と云う宗教を始め、昭和56年他界しております。

「ジンギスカンは義経である」ことは、明治4年に生まれた古神道家・荒深道斉が残した資料にも見受けられます。義経の霊が道斉に降った際の霊言によると「自分が蒙古に渡って成吉思汗になった」といっており、更に「小矢部全一郎は静御前が成した子の血を引いている」と、『我が君様の血の流れを有(も)たるる貴方方が−』とノノムリ霊神が語ったことを、言わば裏付けております。
又、大本教を開いた出口王仁三郎も、「成吉思汗は義経である」と語っております。
アカデミックな世界では、この説は一笑に付されております。しかし、これらの精神世界の著名人には、財界人、政治家、各方面の有識者などのファンが多々いること、判官贔屓の国民性に加えて、二人の生存期間がほとんど同時代であること(源義経は1159年〜1189年、成吉思汗は1162年?〜1227年)もあって、壮大な歴史ロマンとして人口に膾炙しております。
 
その成吉思汗が、昭和24年9月23日秋分の日に小泉平一のもとに出現して、「我神のみこともちて汝を導かん」と言われたのです。
何故にそのようなことを!? それは来月号でお知らせいたします。


                                    続く