小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十一話)2022年9月A


令和四年9月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十一話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十一話

神業から去って行った平一の朋友について


その2 浅草の桑原医院・桑原時雄の
     55年の生涯


 次にお話しするのは、浅草で長年桑原医院を開業し、三光太源の門下の人々にも大変慕われながら、やはり50代半ばで没した桑原時雄についてであります。
 生い立ちから壮年に至るまでの事は不詳でありますが、太平洋戦争に軍医として従軍し、陸軍病院の看護婦長をしていた盛古と結ばれ、戦後、浅草柳通に桑原医院を開業して、一子かなみを授かりました。
 大変明朗快活な性格で地元で大変人気があり、地元小学校の校医を務めると共に、三社様のお祭りにはお神輿を担いでおりました。
 又、医者は診察して薬を投薬するだけでなく、もっと積極的にその病の治癒を行うべきであると言って、内科医でありながら、良導絡という電磁波でのマッサージ機器を備えて経絡を刺激する治療を併せて行っておりました。
 戦後まもなく北村研が開いた、白竜閣に参加して竹内満朋の知己を得、昭和25年に開設された紫光会に入会して平一と知り合うと共に、竹内満朋の指導により霊能力が開花して自動書記の力を得ました。
 何でも、真っ暗闇の中で眼を閉じて統一を行い、竹内満朋が暗闇の中で描く豆電池の照明を閉じた眼で追いかける、そんな修行をしたと聞いたことがあります。
 時雄の自動書記は、その背後霊のみ名は聞き漏らしましたが、その背後霊に頼み事を念じると、お告げが「耳の奥で聞こえてくるのだよ」私にその様に教えてくれました。
 私が綜合統計研究所に入社して数年後、社内の人間関係で悩んで退社しようかと思って相談すると、「いずれ辞めざるを得ない時が来るから、それまで勤めるように」との霊示を頂き、断念致しました。
 因みに、それから二十数年後の昭和63年に、株式会社綜研情報工芸を設立するために退社した折、しみじみとその霊言を思い出しました。
 医療の傍ら、示元医学研究所という看板を掲げて心霊研究にいそしみ、患者にも積極的にその世界の事を語って、染色会社を経営する新井初文、美容院を営む岡野絹、校医を務める小学校の教員飯浜美代子、浅草花柳界の名妓蜂須賀八重、そして島倉姉妹等々これらの人々は時雄の紹介で平一の門下となりました。
 取り分け絹と美代子は後ほどお話しする北島いよと並んで、平一の神業にも係る掛け替えのない存在となりました。
 それらの人々の他にも何人もの門下がいた様で、自宅で竹内満朋の降霊会を行うと共に、後年、平一はそれらの人々の為に、何回か講話に出向いたことがありました。 
 昭和20年代の後半、日曜日になると時雄は、夫人の盛古と一子のかなみ、そして蜂須賀八重の3人を車に乗せて、平一の元に教えを請いに参りました。
 まだ、三光太源の斎庭と講話を始める前の事でしたが、あまりに毎週、毎週熱心に通って来るので「これでは教えることが無くなってしまう」平一がさきに、思わずその様に述懐したのを聞いた記憶があります。
 その蜂須賀八重からは、毎年5月に浅草演舞場で開かれる、浅草の芸妓による日本舞踊「あさじ会」にさきと二人で招待され、毎年楽しみにしておりました。
 八重は道雄兄が没した追善供養の祭事に、奉納の舞を披露してくれました。平一はその返礼だと思いますが、妙義山乗天坊霊神との邂逅を詠った長唄を作詞して贈り、その道の大家戸部銀作が曲と振り付けを付けたと聞いております。
 道雄兄が結核を発病して高校を休学し、自宅療養を始めると、もっぱらその治療は桑原先生のお世話になると共に、幸雄兄も私も、体調がすぐれないと平一から浅草に行って診て貰いなさいと言われ、度々、大変お世話になりました。
 幸雄兄が胃がんを発症し、自宅で40歳の生涯を終えた時の、最後を看取って頂いたのも桑原先生でありました。
 時雄は三光太源会が始まると、北原猪義と共にその集いの中心となり、恒例の妙義山参詣には、先頭に立って皆を励まて石門巡りを致しました。
 そして、平一の神業にも同志となって加わり、昭和32年の豊野油田の試掘に参画し、その内容は不詳でありますが、資金の一部を拠出したようであります。そして、昭和34年12月22日の太源石油発足には監査役となりました。
 その様にして長年に亘り平一に師事していた時雄が、蜂須賀八重を連れて、突然平一の元を去ったことを聞かされて、愕然といたしました。
 それは、昭和47年1月10日に55歳で時雄が没した数年前、私が名古屋に赴任中の昭和44〜45年の事だったと思います。
 平一にその理由を聞いたのですが釈然とせず、岡野絹にも聞きましたが「良く判らないのです」との事でありました。
 それから数年後、時雄が大病に罹ったことを聞いて平一が、病気払いに行きたいと電話したところ、断られてしまったと寂しそうに言った記憶があります。
 名古屋で仕事に追われていた私は、時雄の葬儀に参列することが出来なかったので、日を置いた出張の折に、久しぶりに浅草の桑原医院に弔問に往きました。
 家には九官鳥が飼われており、「お父さんと云うと返事するのですよ」その様に私に云ったかなみの寂しそうな声が、今でも耳に残っております。
 平一は三光太源会で時雄の慰霊祭を行なってその御霊を弔いましたが、その後時雄のことを口にすることはありませんでした。
 私は時折、あの桑原先生の温顔を思い浮かべて、何故平一の元を去ったのか知りたいと思いながら時が流れ、令和3年4月に三光太源の最後に残された飯浜美代子がこの世を去って、その手掛かりが途絶えました。