小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十二話)2023年3月D


令和五年3月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十二話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十二話

平一の今一つの神業、三光太源会による門下の指導について


その5 三光太源会の門下のプロフィール



 では、どの様な人々が、如何なる縁にひかれて平一の元に集まって来たのか、今月はそのことをお話し致します。


 その第一は第二十四話でお話した、浅草の桑原医院・繻エ時雄と夫人の盛古の縁によるもので、岡野絹、飯浜美代子、蜂須賀八重、島倉俊子、三枝子姉妹、新居初文等であります。

 岡野絹は浅草で美容院を営み、桑原夫妻と親交がありました。若い頃結婚に失敗して、欧州航路の客船で乗船客の美容担当をしていたことがあり、気丈夫で気配りの行き届いた性格で、休業の日はしばしば平一の元に来て、半紙を折って祓いの人形(ひとがた)を作る等、あれこれと平一の手助けをしておりました。因みに、私は今でも大祓いの時の祓いに、絹が作ってくれたその人形(ひとがた)を使っております。

 飯浜美代子は、時雄が校医をしていた浅草小学校の教員で、信州生まれの生真面目で教育熱心な性格で、生涯独身を貫きましたが、多くの教え子たちに慕われていたようであります。なお、美代子には平一の神業に特別の所縁がありますが、そのことは別途にお話し致します。

 島倉姉妹は桑原医院の患者との縁のようで、姉の俊子は夭折致しましたが、妹の三枝子さんは三光太源会の残された数少ない門下として、今でも麹町で骨董品の商いをしております。新居初文は歯科医師でしたが、亡父の後を継いで染色会社の社長を務め,平一は頼まれて、その会社の役員に名前を貸しておりました。

 蜂須賀八重は浅草花柳界の名妓で、時雄はその贔屓筋だった様であります。毎年5月に浅草あさじ会という、浅草の芸妓達による日本舞踊の会があり、平一とさきはその招待を楽しみにしておりました。私の次兄道雄の命日に、霊前で追悼の舞を舞って頂いたことがあり、平一はそのお礼にと、「鷹の舞」という乗天坊霊神ゆかりの物語を謡曲に仕立てて贈り、其の筋で著名な戸部銀作が所作と曲を付けたと聞いております。しかし、八重は時雄が平一の元を離れると、一緒に去って行ってしまいました。その他に、名前を失念してしまいましたが、美代子の小学校の同僚の保健婦の方を始め何人かがいたようですが、同様でありました。


 第二は吉江茂からの縁であります。

 戦前、神田にベルモットという著名な婦人帽子の製造、販売をする店があり、その店主が長野県飯田の出身でした。
 その縁を頼って、郷里から何人もの若者が上京して店員となり、その中の一人が茂でありました。茂は平一と商売を通じて親交を重ね、そして平一から神霊の道を教えられて紫光会に入会すると共に、郷里の後輩で同業の北原猪義を平一に引き合わせました。
 その後茂は独立して婦人帽子の製造と販売を始め、妹のるり子と道子を店員として、銀座で婦人帽子の店を開きました。ところが赤紙で招集され、ローム大霊のお指図でその店の経営は平一に託されました。平一は空襲でその店が消滅するまで、その面倒を見て、二人に大変慕われました。                     
 戦後、るり子は竹内満朋の伝手で、石野芳子の石野商会の住み込み店員兼紫光会の事務局担当となり、道子は縁を得て山田武雄の元に嫁ぎました。            
 茂は戦後、色々な事業に手を染めたようですが失敗して、壮年で他界しましたが、茂には康という弟がおり、世田谷の若林で印鑑の制作と印刷を生業としておりました。康の妻富子には久子という独身の姉と。巌という家具作りの職人の弟がおりました。これらの人々は、皆茂から神霊の道を教えられ、三鷹の竹内満朋の家で行われる紫風苑の降霊会に参列すると共に、三光太源会の門下となりました。


 第三は松田りゅうとその姉妹であります。

 松田りゅうは福島県の生まれで、長年、小学校の教員を務めて、多くの教え子達に慕われた様であります。中年になってりゅうは、縁あって杉並で医院を営む医師の元に、後添えとなって上京しました。ところが、医者のご主人が招集されて戦死し、未亡人となりました。

 戦後ひと時、平一の石油開発の師である伊田一善が、りゅうの家の二階を間借りしていたことがあり、その折に神霊と平一のことを聴いて心を動かされ、その紹介で紫風苑の降霊会に参列するようになり、併せて平一の門下となりました。りゅうには、水戸に住むきんと、茨城の水海道に住むりくという二人の妹がおりましたが、その妹達も、姉の話を聞いて心を動かし、平一の門下となり、しばしば降霊会と三光太源会の行事に上京して参列しておりました。

 また、りゅうの教え子の福島に住む佐藤なつは、とりわけもりゅうを慕って、りゅうが上京した後も、先生、先生としばしば訪れておりましたが、その折に平一の話を聞いて心を動かし、是非にと言って平一の門下となり、やはり三光太源会の行事にしばしば上京して、りゅうの家を宿として参列しておりました。
 りゅうが平一に特に信奉を深めたのは、りゆうの一人娘祥子にありました。

 祥子はある大学に在学中、極左翼のグループに入って活動しておりました。ところが後に夫となったグループリーダーと二人して内ゲバに遭い、仲間達に追われて全国を逃避行したのでした。
 りゅうは心を痛めて平一にそのことを相談して、平一がその難を逃れる行法を教えたのでそれに専心したところ、二人は無事に内ゲバの難から逃れることが出来て祥子は家には戻り、夫となるグループリーダーは正業について、やがて業界の著名なスペシャリストになりました。
 りゅうはそのことに深く感謝し、心ばかりのお礼と言って、平一が困り果てていた、老朽化した借家の台所の改修費を寄進してくれたのです。

 スピリチュアルエピソード第9話「夭折した次兄道雄が三度私の元に」でお話しした、道雄兄が初めて私の夢に出てきて「台所直したの」その様に云ったその台所であります。
続く