小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和四年10月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第四十一話
第四十一話
神業から去って行った平一の朋友について
その3 清廉高潔の畏友麦林楢次郎の生涯
次にお話しするのは、第十話「豊野油田開発の終戦までの活動と、親交を結んだ3人の畏友」で、小田秀人、伊田一善と並んでご紹介した麦林楢次郎であります。
生まれた年は判りませんが、恐らく、明治39年生まれの平一より一つか二つ年長ではないかと思われます。
東京大学或いは京都大学を卒業し、戦時中は大政翼賛会に勤務し、後年、その縁で太源石油の会長に招聘して石油資源開発との提携に尽力した簡牛凡夫の元で副部長職を務め、部下に戦後雑誌「暮らしの手帳」の編集長として名を挙げた花森安治がいたとの事であります。
浅野和三郎の東京心霊科学協会に入会して、神道並びに心霊研究者として知られていたようで、戦後、日本心霊科学協会の発足に竹内満朋と一緒に、14人の発起人の一人となって参加し、数年間常務理事を務めました。
その職を辞してから、どの様な実業にあったのかは全く分かりませんが、金銭には極めて淡白な方でありました。
昭和40年台半ば迄に平一に垂示された高貴な神霊からの啓示は、主護霊工藤霊神から「汝が解釈することを許さず」と云われて、全て楢次郎にその任を託しました。
楢次郎はそれを神命として一切の報酬を求める事無くこれを行い、解釈に難航すると、水垢離をとって神霊に助力を乞い、平一の豊野油田開発に秘められた驚愕の秘を解き明かしたのも楢次郎でありました。
また、病のため高校を休学した道雄兄を大変慈しみ、京都大学の哲学教授をされている兄上に、手紙でお引き合わせ頂いて、以降、何かいろいろと文通で教えを頂き、それが病に苦悩する道雄兄の、心の一つの支えになりました。
平一は楢次郎を麦林先生と尊称し、また、しばしば三光太源会で平一に垂示された啓示の解釈を講義し、温厚篤実な人柄と学識で会員の誰からも尊敬されておりました。
夫人のみどりは、その様な家計を助けるためだったのでしようか、明大前の自宅の玄関に大きな鍋と暖簾を挙げて、おでんの煮売りをしておりました。
私は一度平一の使いで書類を届けに行った時、帰りにビニール袋一杯のおでんを頂いた記憶があります。
その様に気丈夫で、子宝には恵まれませんでしたが、貞淑で大変潔癖な性格の方の様でありました。平一が楢次郎を訪問して留守の時は、みどり夫人は「絶対に家にお上がりなさいと言わないんだよ」そう言った声が、私の耳に残っております。
楢次郎は豊野油田開発にも多大な尽力を尽くしました。第一回豊野油田の試掘の際には、神業の為に積み立てたのでと言われて10万円を拠出し、更に簡牛凡夫を平一に紹介して、石油資源開発株式会社との業務提携を成立させました。
その様に誰よりも神業の意義を理解し、高貴な啓示を解釈して平一を励まし支えてきた楢次郎が、突然、平一に絶縁の別れを告げたのであります。
その時期は定かでありませんが、昭和44年に楢次郎が太源石油の取締役を辞任しておりますので、其の直前だったのではないかと思われます。
私が帰宅して家の近くに来ると、珍しくみどり夫人を伴った麦林先生に出会いました。「あら宗雄さん、お久しぶりー」みどり夫人が私にその様に声を掛けて去って行きました。
帰宅して平一にそのことを告げると、平一は沈痛な顔つきで「麦林さんが絶縁を告げに来たんだ」そう言いました。私は驚いて「どうしたの」と尋ねました。
其の理由は全く思いも掛けない、飯浜美代子さんでありました。楢次郎が日記に記した「飯浜美代子さんは清楚できれいな人だ」との一文を目にして、潔癖性のみどり夫人が激怒し、恐らくは別れるのどうのと云った騒ぎとなり、その挙句の果てに楢次郎はみどり夫人から、平一とその一切の関係者との絶縁を約束させれられてしまったとの事であります。
以降、誠実な性格の楢次郎は、その夫人との約束を守って神業から離れると共に、平一を始め三光太源の人々との一切の連絡を絶ちました。
平一はやむを得ず主護霊の許しを得て、それ以降、垂示された啓示は分厚い漢和辞典を繰って、自分で解釈をすることと致しました。
四十話その3でご紹介した、平一の元に菊池豊と楢次郎の霊が訪れて懇談した幽霊問答
には、次のようなことが記されております。
「麦林先生は天仙であられる隼人霊神が背後に立たれて指導され、私が顕幽を往来して戴いた啓示の解読という偉大なる賜命を拝している碩学でもあった。
諸啓示の解読が進むにつれて、神の世界の深奥にふれては、その深遠に感嘆おく能わず、その講義中にも感動絶句することも度々であった。いい加減な力の者には、どんなに大変な経綸であろうと、信ずることは出来ないし、啓示の偉大さをに感動することもないのである。
然しながら、彼ほどの信仰と、その力をもってしても、自ら信ずる記紀の神々との接点を悟ることが出来ないで、懊悩されたまま逝かれたことは、残念でならないのである。」
「彼れ程の力の人であり、よく神に仕え行の人でありながら、尚かつ、家の因縁に躍る魔神の障礙を破ることができずに、すばらしい運命を変えられてしまったことは、誠に痛恨の極みである。」
恐らく、竹内満朋、北原猪義そして青木謙徳等にはその真相を話したことと思いますが、門下の人々や関係者には、楢次郎がこのような悩みの為に離れて行ってしまったのだと説明していたものと思われます。
そして、十年余、平一も楢次郎も再会を待望しながら果たすことが出来ずに、楢次郎は平一に2年先だった昭和56年3月25日にその生涯を終えましいた。
伝え聞くところによると、楢次郎はその一年前に自分の死期を予言して身辺の整理を行い、その日に没したとの事であります。
そして、二人が待望の再会を果たせたのは、この幽霊問答で菊池豊と連れ立って楢次郎が出現した年の前年の11月30日の事で、この日、平一が北島いよを伴って豊川稲荷に参詣した帰途に、赤坂見附から乗った地下鉄の中で、道雄兄に伴なわれた楢次郎の霊と邂逅したのです。
楢次郎は霊界で道雄兄と邂逅して再び親交を結んだとの事であります。
そして平一に、「私が生前行った啓示の解釈は、全て何一つの間違いもないもので、そのことをお伝えしたいために、今日、道雄さんの案内でお目にかかることが出来ました。」
と語っております。
パソコンに向かってこの一文を書きながら、私は麦林先生の温顔を懐かしく思い浮かべておりますー。
完