小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第二十話)2019年2月


平成31年2月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第二十話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第二十話 襲い来る降魔に力を尽くされる

      エレミア霊人は熱血の人、

      諄々と神の理を諭すイエスは

      涙の聖人、

      そしてパウロは―。



 夜毎神業を妨げようと襲ってくる魔神達、そのためにさきの喘息は一段と悪化して死の苦しみでありました。平一もまた悪性の蓄膿症と心臓病、頭痛に悩まされ、寝られぬ日々が続きました。しかし、その様な時には、ヘルマン霊神とエレミア霊人、そして乗天坊霊神が平一を守護されたのでした。
 昭和25年5月5日のことでありました。端午の節句のみ祭りを行ったところエレミア霊人が来られて、平一を祝福しました。そして、続いてイエスが出現したのです。
 平一は日記に次のように記しております。
 「光の霧より一人の霊人現れ来る。長身の霊身光に包まれたり。静かに歩みて、余の前に来たり給う。思いもかけず霊人はイエスなりけり。
これまた肉眼にて接するに異ならずして、余イエスを仰ぎたり。清浄の白衣に長身を包みて、霊光輝きたり。イエス指もて余の頭上に書きつつ、天を仰ぎて何事か祈らるる如し。
 それから霊人、物静かにのたまいけるは『我若き日にバプテスマ(失念不明)−−−丘にて祈りし時、はじめて啓示下りたり。心振るい、心振るえぬ。されど天の啓示受けし日よりして我は苦行の道を知りたり。苦行の道を行き行きして我れ、はじめて神の愛を受け入れたり。苦を知りて愛を知りき。
汝共に今この道にあるを、汝神を信じて何とて心憂いうるや。憂うをやめよ。如何に苦しみ重くとも、この門へずして最高のものに行くこと敵わず。されど最高の門に入りてこそ、汝は自らの使命の意義を悟らん。苦の道は苦の道なり、されど、苦は神の栄光なり。』
 かくイエスのたまう時、余は故知らず涙ポロポロと流れたり。とめどなく痩せたるほほを流れたり。イエス、かく余に告げ給いて、光の霧の中に去り行きしなり。慈言耳に残り,温容、幻を彷徨す。

 余の今涙流れしは感激の涙にはあらず。今の余にとりては、それは温かきものに抱かれし如き、母に甘えし時の涙なり。愚痴の涙にして、又愚かなる涙にてありけり。」
 平一はバイブルを読んだことも無く、両霊人の伝記もその史記も知らず、そのために、史上に残る両偉人の性格も又行為も知りませんでした。しかし、平一はこのように言っております。
 「余の知れるエレミアは、風格高く仙気を供え、叡智の人にして熱血の人なり。人それにふるれば、魂の灼熱を感じるがごとき、又一面、秋霜烈日の気概もて道を説きし人なるが如し。
 今、我知れるイエスは、エレミア霊人とはその性格正反対の人なりと感得さるるなり。
 イエスは衆人共にある人にして、大愚の人なり。涙もろき人にして、ある意味では情感の激しき人なり。又、愚痴の人にして信の人なり。誠の人なり。行の人なり。
 悩める人に対しては、彼は悩みて共に祈り、嘆きし人の嘆くを見ては、イエスもその人と共に嘆き、泣きじゃくりつつ神に祈りし人なり。されど、彼の祈りは通じ、彼の祈りは聞かれず、嘆きては祈り、祈りては嘆きし人なり。
 かくの如く余の知れる両霊人の性格相反するも、両者一貫して相通じるものは、そは絶対の信念と不動の意思なり。生前、彼は恐らく世より崇められし人に非ざるべし。又、其れを欲せしが如き愚人にはあらず。嘲られ、罵られ、生涯世間より捨てられしが如き苦をせし人なり。苦しみし人なればこそ、彼は愛の人にして、涙の人なりける。イエスは大愚の偉人なり。
 なお、今日、イエス来たり給いて、余に感じしは、イエスは生涯恐らく学も無く、訥弁の人なり。エレミアは学の人にして、雄弁家の如し。」

 同年5月31日、この日もまた平一は病苦の床にありました。そして、貧苦と重ねて鉱区税の滞納をいかにしたらと思い悩み悶々としておりました。するとイエスが現れて、西霊に対する深遠な秘儀を諄々と説かれて、光に包まれて去って行かれました。
 すると、エレミアの様な偉人が目の前に立たれました。古い西洋人で、霊光はエレミアより劣ってはおりましたが、身体が頑丈で背がやや低く、目が大きく頭は禿げあがって、絵で見るだるまの様な風貌をされておりました。
 その偉人はパウロと名のられて「わが師の汝に今諭し給いしを忘れるなかれ。汝に説かれたる贖いの道(犠牲の精神)の尊さを知れ。師はこの理念に徹しこの道を踏みたまえしなり。故に師の教えの中枢となす。されどこの悟りは一朝一夕に来たりしものに非ず。師も苦行を通り行きて愛を知るに及びてここに至りしなり。(苦は空なり)苦は神、一つにあり。贖いの悟りを知れ」そう言われたのです。
 又、パウロ霊人については、同年8月12日の日記に次の様な記録が記されております。
 「『限りある身、限りなき身、汝何れを知れる。』『二つとも、その一端のみを知っております。』『汝は限りある身なるか、汝は限り無き身なるか』『私は限りある身であると同時に、又、限りなき身である、と思っております。』『然り、汝も知れる如く、人は永遠の彼方より来たり、永劫の未来に往く。故に現在は一瞬間なり。限りある身なるが故に、この一瞬を生かさざるべからず。汝如何にして生かすや。』余答え得ず。『刹那の波動に融け込むことが出来得てこそ―、又、限りなき身になるなり。この意味良く考えよ。』かく言い放ち給いて霊人去り行けり。北天行中の事なり。霊人はパウロなり。」

 又この様なこともありました。同年9月9日に平一は北天の行中、イエスに伴われて空に昇りました。大いなる雲の谷間が続き、その合間から紺碧の空が見えました。
 一体何をしに何処に行くのだろうかと訝しく思いながらついて行くと、前方の雲の壁に向かって、イエスが何事か唱えて九字の様なものを切られました。すると、その雲の壁に大いなる窓が開かれたのです。そして、平一に遥か彼方の下界を見下すよう指を差されました。しかし下界は薄暗く何も見えませんでした。
 やがて、かすかに平野の如きもの、山脈の如きもの、海洋の如きものが見えてきましたが、夕暮れの様で一つの光もありません。今は夜ではないので、どうしたことかと思っていると、何処から湧き上がって来たのかその闇は死の様な灰色となり、生気がありません。
 これは一体何ごとであろうかと、訝しく思ってイエスの面を振り仰ぎましたが、何も言われず、唯そのお顔は憂いに満ちておられました−。
 「余益々不審のみおこりて、今度は心沈め心を凝らして闇に眼を見定めしが、余は思わずアっと叫びたり。余の霊眼闇に吸い込まれ闇を見し時、暗中に妖光明滅し、何物かがうごめくものあり、陰光を発し幾万とも無く走り飛ぶもの、まろび行くもの、その一つ一つは見定めざれども、魔界の相を現出す。人界ために汚濁し、妖光大地を覆いて、大地又もろもろの諸悪を呼ぶなり。やがてこの黒き闇、大地に重なり行けば大地に妖光渦巻きて、人の世の終りにも似たる地獄の相も現出し行くならむ―。」平一は雲の窓辺にたたずんで、こぶしを握り締め、おののきながら、彼方に飛んで行くような大地を見つめておりました。
 「薄暮の如く見えし大地も、何時とはなしに闇に呑まれ行く。闇の厚さ重なるごとに、幾満ともなきもろもろの妖光、陰火、暗中に明滅す。余思わず諸手にて目を覆いたり。
 その時イエス、初めてのたまいけるに『見よ、闇は穢れなり。人、神の子にして神を忘れ神を知らず、慈恩に狎れる。世は闇におおわれ行くなり。闇、重なり行かば世の穢れ禍を呼び、天また天変地変を降すなり。世界の地獄、近ずきたり。されどこれよりして新しき世明けそむるにならんか。』イエス我に言い給う。『汝この世の闇に燈火を点じ行くべし』

 次回は、「スピリチュアルエピソード29話」でお話しした道雄兄の乳母針生バッバの上に賜った、イエスの慈愛のことをお話しいたします。