小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和五年4月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第四十二話
第四十二話
平一の今一つの神業、三光太源会による門下の指導について
その6 三光太源会の門下のプロフィール続き
話が前後しますが、三光太源会には云わば門下筆頭に当たる方がいました。その初めは桑原時雄でありましたが、時雄が去った後は北原猪義がその役割を務めました、なお、夫人の貞さんも猪義と共に門下となっておりました。
そして昭和51年4月に猪義が没した後は、青木謙徳がその任に当たりました。
謙徳は赤坂乃木神社の禰宜を務めると共に、整体師を生業として自宅に蒸し風呂とベッドを備えると共に、国会議事堂の地下にも治療コーナーを設けておりました。 紫光会の古くからの会員で石野芳子からの信頼も厚く、いつもローム大霊祭と5霊神祭では、神主の竹内満朋の副参を務めておりました。
地元赤坂に何人もの門下がいた様で、平一は三光太源会が始まる前に時折頼まれて、謙徳の元で講義の会を開いていたようであります。
そして、後年、竹内満朋に懇願して、自宅で青雲会という斎庭を開きましたが、それでも平一の生前中はひで夫人を伴って、平一が参列している三鷹の紫風苑でも、主護霊の霊言を拝受しておりました。
謙徳はひと時、どの様な経緯で知り合ったかは不詳ですが宮辺の宮主という行者と出会って、これは三光太源の言わば裏の教えだとそう信じて、その許に通ったことがありました。
平一はその振る舞いを案じて、隼人霊神にお伺いしたところ、その様な霊格の高い行者ではないので止めさせる様にと言われ、謙徳も思い直したことがありました。
なお、謙徳の息子の義雄さんは、神職を継いで五反田にある金毘羅神社の神主となり、平一、竹内満朋を始めとする、神道で弔うローム大霊門下の葬儀を取り仕切って、健在でおります。
奇人として迎えられながら、空しく去ってしまった田原正吾は、義兄で整体師の田口先生と、新潟に住む佐藤という若い弟子を伴って門下になりました。佐藤はひと時平一を神の如く敬いましたが、やはり正吾と共に去って行き、田口先生1人門下に留まりました。
また、石田博と云う門下がおりました。博は外務省の要職を経て独立し、健康機器の開発企業の経営の傍ら、最後の行者と言われた金井南龍等の元で神道の研究に研鑽すると共に、昭和51年に「21世紀の新エネルギー」という著書を上梓しております。また、賀茂真淵の高弟伴信友の家系に養子となったとの事で、信友が描いた後醍醐天皇ご愛用の笛に賛を記した巻物を持参いたしたが、昭和52年に没しました。
その他に、だれの紹介かは不詳ですが、大きな病院の看護婦長を務めている小野という中年の女性と、その息子の聡という門下がおりました。聡さんは特殊学校の教員を務めて、今でもお元気でおいでです。
その様に様々な縁で平一の元に集った門下を、平一は全て太古に平一が神界で政の一端を務めていた時に、関わりのあった神霊たちの御霊の末で、平一の授かった神業を補佐するという使命の元に、今生集まって来たもので、それぞれの主護霊は全て、神業の主神である「かくらみょうとうおうじようりょくせん大神」の神恩を戴いていると言って、その指導に傾注して参りました。
所が平一が没する6年程前の昭和52年10月に、思いも掛けない事件が起こりました。長年の門下であった吉江康、富子夫妻を始め池内巌とその姉久子、今一人お名前を失念しましたが富子の友人の女性の5人が、平一の元を去ってしまったのです。
その理由は巌に対する、平一のあまりに厳し過ぎる指導にありました。家具職人の巌は酒好きのおとなしい性格でしたが、職人としての覇気に乏しく、腕も今一つの為、平一は持ち前の美意識により、一流の職人にさせたいと願って、あれこれと指導をしていろいろな物を作らせたりしました。ところがその教え方があまりに厳しすぎる、これは苛めではないかと義姉の富子が腹を立てて平一に抗議し、挙句の果てに揃って門下離脱となってしまったのです。
平一は困惑して隼人霊神にお伺いを立てたのですが、意のままにさせよとの事だったので、引き留めを断念した様であります。
平一の葬儀の折に、私は参列してくれた富子から、先生にお別れした時に、でも、お葬式だけはお伺いしようと、皆で決めていたのですよとの言葉を聞いて、心の休まる思いが致しましたが、平一の最晩年の悲しい出来事でありました。
門下筆頭の他に、特別の存在として、終生、門下の中心だった北島いよ、岡野絹、飯浜美代子の3人の事は、次回にお話し致します。
続く