小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
平成31年4月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第二十二話
第二十二話 「紫光会」石野芳子とローム太霊
の講話についての慈愛、
平一が貧苦と妻さきと自らの病苦に、加えて神業を放棄する様にと夜毎襲ってくる悪霊との苦闘の日々の中で、唯一心の安らぎを得られたのは「紫光会」でのローム太霊の霊訓講座への参列でありました。
「紫光会」の成り立ちは、浅野和三郎の門下生で、戦後「日本心霊科学協会」の設立に参加して後に常務理事を歴任した北村研が、物理霊媒竹内満朋と荻原真を招いて京橋槇町に開いた心霊相談所「白竜閣」にあります。そこでは各人の相談事に対して、ローム太霊と萩原真の主支配霊大峯老仙が、それぞれ直接談話方式で霊言を垂示したのです。
戦後の混乱期で、色々な悩みを抱えた人々が各方面から参集して、一時は隆盛を極めたとのことでしたが、やがて会員が竹内満朋のフアンと荻原真のフアンとに分かれ、一方北村研の運営方針と齟齬をきたして、1年余で解散の憂き目にあってしまいました。
そこで、竹内満朋に傾倒するグループが集まって「紫光会」を結成し、一方、荻原真は医学博士塩谷勉と宗教法人「真の道」を開きました。
「紫光会」は寺見文雄が会長となり、その拠点を中央区新富町の圧力釜本舗石野商店に置いて昭和25年2月8日に発足いたしました。
石野商店店主の石野芳子は、若くしてご主人と共に玄米の炊飯に適した圧力釜を考案し、玄米食の普及による健康増進をセーリングポイントに、圧力釜の販売を行っておりました。
早くして夫と死別しましたが、再婚せず、若いころからの敬神の志の実践として、日本敬神婦人会の会長となって神道の布教実践活動を行いました。
各方面に広範囲な人脈を有し、石野商店が都心の一等地にあること、芳子が豪放で所謂女傑タイプでありながら、圧力釜を中心として色々な料理を考案開発し、女性としての気配りも深く、各方面に独特の人気を博していたため、紫光会の事務局長の様な立場になりました。
そして、店舗の2階を、三鷹に住まいを持つ竹内満朋の紫光会を初めとする都心での活動拠点として提供し、竹内満朋は平日此処に寝泊まりしておりました。
なお、「第13話」でお話しした様に、吉江るり子が石野商店の店員兼「紫光会」と竹内満朋の世話役として住み込んでおりました。
その昔、訪れた時の記憶を辿ると、石野商店は木造2階建ての店舗併用住宅で、戦災で焼けてしまった後で建てた俄か普請の様でした。
店構えは入ったところが土間になっており、直ぐ帳簿場があって芳子はそこに座って来客の相手をしていました。両サイドに圧力釜が並んでおり、玄米食普及のポスターが貼られておりました。帳簿場の奥に芳子の居間や台所、ふろ場、トイレなどがあり、2階に行く階段がありました。
2階はおよそ10畳程の広さの和室で、大きな神棚とその横に、物理降霊会の際に竹内満朋が入るキャビネットがありました。
この様な、戦後の混乱期では恵まれた環境と云えるものの、今考えると真に粗末な混沌とした場において、ローム太霊の講話が行われたのでした。
「紫光会」では、会員がそれぞれの主護霊から霊言を拝受する主護霊会と、特別にローム太霊の講話を拝聴する会が行われました。
主護霊会の会員の名は残されておりませんが、厳しい入会規定などが無いことから様々な縁での人々が参加し、その中には作家の石原慎太郎、小糸のぶ、更に真光教団の岡田光玉がおりました。平一の話では、光玉は何時も黒塗りの高級車で乗り着け、会が終わるまで運転手が待っていたとのことであります。
ローム太霊の講話は「一般会員を対象とする霊訓の会」「真珠会」「RP(リアールパール)会」の3つの場で行われました。
「一般会員を対象とした霊訓の会」は、昭和28年6月から始まり、昭和56年迄続きました。ここでは、神霊に関する真理や実相を、寓話の中に織り込んで分かり易く話されました。
「真珠会」は、太霊からお守りとして真珠を授かった特定会員を対象にしたもので、昭和27年3月から同39年10月にかけて行われました。
此処では、自然霊を始め各種の霊達が鬼奇神・天霊神・天冠神に至るまでの、即ち神ではないが広い意味での神の力を得るまでの、実に時間を越え言語に絶した驚くべき修行の道程を詳細に説明しております。
「RP(リアルパール)会」は2回目の真珠を頂いた少数の幹部会員が傍聴して行われたもので、昭和26年1月から同45年4月まで続きました。
講話の内容は、神そのものの本質とその組織から、宇宙万物の機構とその生滅の実相に至るまで、かつて人知を以って解明しえなかった秘奥の問題について、太霊が長年霊界において研究された成果が語られております。
この真珠会・RP会の出席者の名も残されておりませんが、私の推測だと会長の寺見文雄、事務局長の石野芳子を始め、小泉平一、菊池豊、麦林楢次郎、桑原時雄、青木謙悳、吉江茂、北原 猪義、山田武雄、石川(芳子と親しい婦人会員)等と思われます。
そして、これらの講話は物理降霊会の漆黒の闇の中で、会員各自が画板に挟んだわら半紙に書き取り、終了後読み合わせをして各自持ち帰ることを常としておりました。
なお、この中で「一般会員を対象とした霊訓の会」の記録だけは、その都度ガリ版で刷られて会員や関係者に配られると共に、昭和44年までの110回分を「ローム太霊講話集」として寺見文雄により出版されております。
しかし、真珠会、RP会での講話は参加した会員の手に残されただけで、私が平成27年12月に「最後の物理霊媒・竹内満朋の物理降霊会でローム太霊が講話された 死後の世界・神霊界の実相に関する研究」としてその一部を発表した以外は、一切公開されること無く現在に至っております。
なお、芳子はるり子を娘の様に遇し、るり子も献身的に尽くしましたが、何故か跡継ぎを持たなかった芳子がるり子を養女にすることはありませんでした。そのために、昭和45年石野芳子が没した後、芳子が保管していたこれらの霊訓を初めとする紫光会の貴重な資料は、心無い親族の手で全て廃棄されてしまいました。
又、竹内満朋の手元には、これらの記録は一切残されておらず、竹内満朋の志を継いだ三女老子さんの話では、「手元に残されたのは、何時誰に会ったと言う記録だけです。」とのことであります。
平一は芳子と大変気が合い、紫光会から帰ってくると、楽しそうにあれこれを話しておりました。又、顔の広い芳子から時折宮内庁からの菓子だとか、珍しいものを土産に貰ってきました。
平一は「紫光会」では竹内満朋の義兄で精神霊能者であること、芳子とるり子が平一を先生と尊称していることもあって、会員達からは特別の扱いをされていたようであります。
その様な中で、浅草の桑原医院桑原時雄との縁が生まれました。桑原時雄の事は、後日お話しいたします。
完