小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和三年5月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第三十四話
第三十四話
平一が奏上した祭文・奉献の文について
その4 次男道雄の五十日祭の祭文
次に趣を変えて、「第二十五話その2」でお話しした、平一が次男道雄の五十日祭に餞(おく)った祭文をご紹介いたします。
「 小泉道雄五十日祭 祭文 昭和38年2月24日
霊縁因縁の人々の熱き情けなる今日の祭りを宜しく享け、汝道雄の霊、心して父の告ぐる言葉を聞くべし。
青き車に乗りて汝はかくり世に赴くも、残されし冬草は、今年の春を迎えて萌え出るべし。これ命の相違なり。
汝の生は短く、貧苦の中にありて病悩呻吟の半生なりしを悲しむなり。然りと言えども、汝はすでに生前、神の実在を知り、霊界の存在を認識しあり。今日幽明、其の居所を異にして、父母兄弟と相会す。感慨いかばかりならん。父は背負わされたる十字架の重きにあえぐとも、たれか恩愛の親として、そのいとし児を生贄に捧ぐるものにあらずや。然れども父は汝を捧げ、汝の母を白羊として捧げたり。
いずれかは開く門に、命の意義を覚るべしと、ローム大霊の父にのたまいし如く、汝も亦、その門開かるる時、神霊御自らに前代未聞の大業と称え給いし豊野の事業の意義も、将又白羊の秘と云われしものも、汝も又神よりの命とともに悟らるべし。
ただその一日も早からんことを願うのみ。
さはれ、汝の思い、生前有縁の人々の夢に通いて、汝は自らの運命の定めを語り、其の諦めを告げしならずや。
今日、その病の苦しみも癒えたるならん。みたま、やすらかに憩い、ただ三光の神光を常に仰ぎて、神のみ裾にすがり奉れ。
主護霊よ、この苦しみを救い給えと汝が祈りし汝の主霊は、汝が悲運を嘆くを見れば来たりて嘆き、汝が苦しむときは涙して苦しみ給い、汝と共に祈り給いいしなり。
悲しき時も、うれしきときも、将又寂しきときも常に主霊に語れよかし。主霊は汝を神の御ひざに伴いゆかん。さすれば心の曇りも消え去るべし。
必ずや、北岳の紫風、人々の捧げたる難難至誠を、二十有七年の血涙もて贖われたる
大業の光をいざない、以て地門の紫光となして、顕幽両界を射照し、汝の死を光らすべきを信じるなり。今日の祭りに、霊の向上をひたすら願いて、もって追悼の文を餞(おく)るなり。」
この祭文について、門下の方々から解釈を求められたとの事で、長文の講義録が残されておりますので、その要点をお伝えいたします。
まず巻頭の「青き車に乗りて」から始まる文言は、「スピリチュアル エピソード第9話 夭折した次兄道雄が3度私の元に―・その1」でお話しした、道雄の遺品の短冊にしるされていた「冬草は 残されしまま青き車行く」からとったものであります。
私が知るこの句意は、見舞いに来てくれた弟は、青い車を運転して帰って行き、冬草のような自分が一人後に残された!という、感慨と寂寥感を詠ったものであります。
しかし平一はこれを道雄の辞世の句として、「青とは霊界、即ち西霊を表現した色であり、車とは神からのお召しの意味、即ち死の迎えの車である。
そして冬草とは。三光の霊縁があって行業一如の大道を踏み修めている、自分に関係のある人々の中で、まだ運命の開門が閉ざされている人々を冬草に擬え、汝の死を転機として、冬草は今年の春から萌え出るだろう。何故なら、冬草の根に食い込んでいる因縁というしがらみの一つ一つを、神は汝に背負わせて霊界に召されたからだ、それが、汝が受け持たされた命なのだ。」とその様に諭しております。
というのは、「生前、道雄は、冬草に例えたそれらの人々の夢枕に立って、それらの人々の家にとりついている因縁を贖うために、自らの身を苛んでいるその有様を知らせていた。」との事であります。
更にまた、「道雄の死は、平一が神から託されている、豊野油田開発という神業成就を贖う為に捧げた生贄の一つであったとして、いとし子を神に捧げる父親の心情を開陳すると共に、道雄の母さきの病も同じ意義による白洋の秘−古代西洋では神に生贄として白い羊を捧げた―なのだ、」即ち神に捧げた贖いなのだと明かしております。
そして、「その神業が達成された暁には、何故に豊野油田開発が神業であるかの意義と、汝が神から賜っていた命と、母が託された白羊の秘を悟ることが出来るので、その日の一日も早いことを願う」と云っております。
また、「今日、その病の苦しみも癒えたるならん」については、「病とは、まず人間の幽体に悪い炁
がまつわりつき、その炁
に誘われ病菌を司る自然霊が其処を犯してくる。そして初めて、肉体のその個所が病菌に侵されて、病気という現象が現れてくるものであり、そのために、病気の時、人形やヌサで祓うことは、幽体に憑っている曇りを払うことであって、それで悪炁
、病炁
が払われることになる。」
「それと同様に、精神とか心とかは、肉体そのものにあるのではない。そのために、肉体が灰になっても、心が消えてしまうものでは無いのだ。心は肉体以外の幽体、霊体、元体それぞれに一貫して存するものである。」
「そのために、幽体に存する心そのものの波動が、執着という念に変化したり、愛憎や煩悩を起こしている以上、死の彼方である幽界に居住する幽体には、心の波の動きがどこまでも持続するのである。」
「従って、俗に云う人霊にせよ動物霊にせよ、因縁霊と云われるものは、煩悩や愛憎、怨念の心があるから、そういうものの権化になって人間にまとわりついたり、又はそう云う悪しき炁
を以て人間に障害を与えるのである。」
「然し、人間が本当に死後に於いて、自らの死を自覚して悟ることが出来たり、或いは、生前中積み重ねた善悪の軽重や、信仰や行を積んでいる場合には、死に目覚めると同時に、其の病の病苦は消えてしまうのである。」
「そして、御魂安らかにしばし眠るがよい。死とは人間にとって一瞬の眠りであり、目覚めたならば、父が教えを思い出して、自らの向上を三光の神光に仰ぎ、そして汝の行の向上を神におすがり申し上げれば良いのである」と教えております。
又、「悲しいとき、寂しいときはひたすら主護霊に頼るがよい。主護霊は必ず、守護神のもとに伴い行くであろう、さすれば心の曇りも晴れるであらう。」
そして、「北岳とは、最高神界である北神の中に存在する、諸々の神仙界を総攬する高き仙界の総称で、この北神神界から『神の御旨に応えてみたまを正し、世のために人の為に尽くせよ』という神の意志が、高く霊妙な紫の炁
・紫風となって流れている。」
「その紫風を受けて、長年神業の為に尽くし、艱難辛苦の行業を捧げた人々の誠と、汝の父母が二十七年の間に石門の道に流した血涙の贖浄とによって、終に地門開門という重大なる命に応える事が出来た時、その大業から発する光が燭台となって現界と幽界を煌々と射照らし、白羊となって身を捧げてくれた、汝の死の意義を光らすであらうことを信じるものである。」
そして、今日の御祭りを期して、霊の向上をひたすら願いつつ、追悼の文をはなむけするものであると、その様に云っております。
完