小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第26話(その1)2016年9月


 平成28年9月吉日


スピリチュアル エピソード 第26話(その1)

私の背後霊になった恩師M社長の話



 このHPでプレゼントしている私の作品「知られざる物理霊媒竹内満朋」が、平成15年10月に「ムーミステリーコンテスト」に入賞した際の選考委員の談話として、「内容は面白いが話が古い・本人の体験ではない−」などの批判が散見されました。
 それらに発奮して「では私自身の体験を」と再度応募したのが表題の作品であります。
 M社長とは私が長年勤務した株式会社綜研を、零細企業から一流の情報機関に育て上げた方で、私が長年、公私に亘り様々な薫陶を頂いた恩師でありました。
 この作品は、その恩師が死後、私に下されたスピリチュアルなエピソードの記録でありますが、応募を計画した平成13年当時は、亡くなったM社長のことを知る人が多く、併せて、綜研も業界の老舗企業として活動していたことなどから、不測の混乱を勘案して、コンテスト応募の条件である「実名並びにその裏付けとなるデータ類は一切添付できない」注記致しました。
 そのためか、残念ながら再度の入選は果たせませんでしたが、M社長のお力の素晴らしさをお知らせしようと、若いころからお世話になったM社長の奥様と、名古屋にお住まいのHさん・M社長のお姉さんにお目に掛り、この作品を読んで差し上げたうえ仏壇にお供えして大変喜んでいただきました。


 それから15年の歳月が流れ、M社長が亡くなってから来年は23回忌を迎えます。そして、手塩に掛けた綜研は、平成23年に創業63年を以てその歴史を終えて消滅してしました。
 一方、昭和の終わりの前年、昭和63年8月にM社長に勧められて単身創業した株式会社綜研情報工芸は、先月で28周年を迎えることが出来ました。
 設立の条件は、「一切の既存クライアントを綜研に置いて行き、新規市場を開発すること」「エリアマーケティングの実践的展開を図ること」「退職金はグループ企業を離れるまで据え置き」等の厳しい条件でした。
 ところが、会社を立ち上げると、思いもかけない方々から、暖かい助力の手が差し伸べられて基盤づくりに成功し、そして綜研の文化の一端は継承して、今日を迎えることが出来ました。
 その様なことから、今回、企業名だけを明らかにして、M社長が示されたスピリチュアルな私への恩情とそのお力とを、3回に分けてお知らせする次第であります。


その1 私に代わって迷える魂を救済した

        M社長の御霊


 平成3年にM社長は大手クライアントD社出身のY氏を社長に迎えて顧問に退き、傾きかけた企業の再建を託しました。しかし、色々と意見の相違があったようで、同5年に、思いを残しながらその職も辞して千葉に隠遁しました。
 お別れの折に、私に「仏教に勤しんで余生を送るのだ」と語っておられましたが、ビジネスへの執念は捨てきれなかったようであります。ところが、長年のたばこ好きが災いとなって喉頭がんを患って入院し、そして7年10月25日急逝したのでした。
 その時期、私は折悪しく膀胱がんを患い都立広尾病院に入院していたため、葬儀に出ることが出来ませんでした。
 そこで退院してから、同じグループ企業に在職中のH君を誘ってM社長の旧宅に伺い、仏壇に般若心経と観音経を奉奠して長年の薫陶へのお礼を奏上しました。


 そして、その後を追うように、綜研のW君が50代の若さで食道がんを患い亡くなりました。W君は20代で綜研に転職し、その生きのよい気風がM社長の眼鏡に適いました。リサーチやマーケティングの勉強が嫌いでしたが、部下たちを毎日酒・マージャンに誘って人気を得、強面の体躯と言動で、年長の幹部達に一目も二目も置かせる存在へと駆け上がっていきました。
 先輩でしかも全体主義の私は、彼には煙たい存在の様でしたが、同じ司馬遼太郎フアンと云う接点もあり、時折ふと社内のだれとも違った連帯感を感じるそんな間柄でした。そのことが後述の「私に助けを求めた理由」となったようです。
 W君はしかし、後任となったY社長には不要な存在となってしまい、会社立て直しのためにリストラされて部長職を失い、その後再雇用されたものの全くの雑用係になってしまいました。
 その心労もあってか病に倒れ、病院に見舞いに行くと、私にはめったに弱みを見せなかった彼が「昔は良かった」ポツリとそう云ったのです。しかし50代半ばで、まさか死ぬとは思っていなかったようです。
 M社長の仏前に伺った数日後、三軒茶屋の旧宅を弔問して、同じように仏前で経を供えました。
 そして数日後異変が起こったのです。寝しなに夢を見ました。私が神棚で拝んでいると後ろにW君がいて、「私はとてもこのままでは死にきれない。だから、小泉さんに助けてもらうんだ」そう云ったのです。
 朝起きると体がだるく、特に肩がズシーッと重たいのです。鏡を見ると我ながら気味が悪いほど顔がどす黒く見えます。どうやら私にとり縋ってきたようなのです。
 「貴方はもう死んだのだから、執着を断ち切って御霊の向上に努めるように」と一生懸命祈ったのですが全く効き目がなく、厄祓いの人形で身体を祓っても離れる様子が見られず途方にくれました。そしてようやく、六月末の大祓いで、何とか「いなくなった」ことを感じたのです。
 しかし、其れは実はM社長の御霊の計らいだったのです。
 M社長が亡くなって暫くたったある夜、寝しなに夢を見ました。茶色のスーッ姿のM社長が、向こうから颯爽と歩いて来たのです。私は晩年になるにつれて昔の輝きを失い、そして社長辞任後、時折社屋の周辺を徘徊しているM社長を見るのが辛かったのです。その時の心情が蘇って、M社長を直視することを躊躇いました。しかしM社長はそんな私に構わず「おう」と云う一言を残して、三十代、四十代のスマートでファイトが全身にあふれていた時と同じように、速足で去って行きました。
 「あーM社長はやっぱり偉かったんだ。死んでも違うんだ」その雄姿を見て嬉しくなり、そしてパッと目が覚めたのです。


 それからしばらく経ったある日、又同じような時間帯でM社長の夢を見ました。幹部が連れだってどこか温泉地に行楽に行きました。海岸の様で、夢の中では私はまだ綜研に在職しているようでした。私の横に5、6人の懐かしい昔の同僚がいました。
 M社長は愛車の運転席に座りました。昔から車の運転が好きで、行楽の際には、気の置けない幹部を同乗させて自分で運転するのが常でした。遠い昔、秘書の様な立場にあった私は、躊躇わず助手席のドアに手を掛けました。するとM社長は怖い顔をして私を睨んで「乗るな」と手で合図しました。「おかしいな」、するとM社長は、亡くなったW君だけを助手席に乗せて、車を走らせて去ってゆきました−。そこでパッと目が覚めたのです。
 「あー、M社長がW君を引き取ったんだ」私とは段違いに力をお持ちなんだー」目覚めてから思わず胸が熱くなり、W君を救えなかった自分の非力を恥じました。

 なお、「心霊科学」では、一定の条件に該当する夢を「霊夢」と云って、霊視現象の一つと認めております。その条件とは「夢に見る情景は、白黒で又間もなく忘れるのが普通ですが、霊視で見る光景は天然色で、しかも長期間、細部まで覚えているのです」と定義しています。
 更に、物理霊媒竹内満朋は、「霊夢は、寝しな、または寝起き直前に見ることが多い。この時間だと雑念が少ないので、神霊が伝えやすいのだ」と云っております。私の見た夢は、この条件に正しく適合しております。
 来月は、そのM社長が、私の会社の多額な売り上げを齎して下さったお話をご紹介します。       

続く