小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第6話(その2)2014年2月


スピリチュアル エピソード 第6話              平成26年2月



ローム霊団の岩崎霊神について



その2 「今のは益太郎霊人です。良かったですね−」。


 私の父は京橋区木挽町一丁目・現在の銀座一丁目に生まれた。私の兄二人も同様である。

私も長年、故郷は同じ銀座だと思って育ったが、中年になって、実は私だけ浅草の鳥越で生まれたことが判った。年子3兄弟の末っ子だったので、さすがに自宅での出産に疲れて、母の故郷の浅草・鳥越の鳥越病院にお世話になったとのことである。


 その木挽町一丁目で、曾祖父金助の代から小泉商会を営み、父の代にはもっぱら荷造り材料を商い、私が生まれた昭和10年代には木造3階建の店舗併用住宅で、裏には別棟の倉庫があり、何人かの住み込みの店員がいた。

母の妹の連れ合いで、元々父には従兄弟に当たる義弟のMは、小泉商会の番頭の様な立場にあったが、父と違って体格が良く、外交的で明るく、私たち兄弟にも優しかった。その叔父が召集され、その家族は叔父の実家に疎開した。

昭和18年に、祖母と私達兄弟は,伝手があった世田谷の赤堤に疎開し、父と母は京橋に住んで日曜日は世田谷へと言う二重生活になった。その小泉商会は、昭和20年4月の大空襲で全焼してしまったが、父は友人の家を取り壊した古材で小さな家を建てて、商売を続けた。

戦後間もなくMは無事に戦地から帰国して、真っ直ぐに京橋に帰ってきた。私の両親はもとより、私達兄弟にとっても本当に嬉しかった。父はMに、家族を呼び寄せて一緒に暮らしながら小泉商会を続けるように計らい、自らは病弱であった上に、神霊研究と奇しき使命としての石油開発の事業に没頭して、小泉商会の経営に手を抜くようになった。

終戦後の混沌とした、誰もが自分と家族を守るのに必死な時代、商売がようやく軌道に乗ると、実権がMに移って父との関係が険しくなり、ついには毎月幾ばくかの報酬を受け取ることを条件として、権利を全て譲渡せざるを得なくなってしまった。


昭和50年10月にMがこの世を去った。その数日前のことである。Mが病気で入院したとの知らせを受けて、病弱の父に代わって病院に見舞いに行った。

病名は忘れてしまったが、酸素マスクをしていて話すことも出来ず、病状の重いのに愕然とした。家に帰って、西霊大真如大神とローム霊団の重明霊神に、懸命に病気の回復を祈った。

その夜の寝しなのことである。天井に光り輝く黄金色の墨痕豊かな「寿」という字が見えた。はっと目を凝らすと、その字が水に溶けるようにフワーと消えてしまった。

「おや−」。1その時である。「今のは益太郎霊人です。良かったですね」あの囁くような岩崎霊神の声が耳元に聞こえた。益太郎は昭和7年に他界した私の祖父で、私の背後霊の一人である。その益太郎が、この寿と言う字を示したのだと言うことを、岩崎霊神が教えてくれたのである。

翌朝、そのことを父に話して、「叔父ちゃんどうも駄目らしいよ」と言うと、色々と経緯があったにせよ義理の弟であり、やはり延命の祈りをしていただけに「宗雄、寿と言う字が見えたのなら助かるのではないか」と安堵の声を上げた。しかし、旬日を得ずして訃報を耳にして「今回はお前の方が当たったな」と述懐した。

霊現象はその解釈が難しい。父ほどの霊覚者でも、血縁の情から判断を誤ったのである。しかし、その以前に問題になるのは、その現象が霊的なことなのか、潜在意識などからくる妄想なのかの識別である。

この現象は、私の祈りが益太郎霊人に感応したもので、その解釈はお前に任せるとしても、決して妄想や幻覚でないことを教えて下さったのである。そして、岩崎霊人が直接私に語りかけたのは、この時の一回だけであった。

                                                                              以上