小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話D)2023年11月


令和五年十一月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その5 神霊界の実相「宝亀、麒麟、鳳凰などの
     聖なる存在について」

 伝説として伝えられている宝亀、麒麟、鳳凰等の聖なる存在について、平一は昭和33年10月10日の西霊金神の御祭りでの体験を記した「西霊金神拝神記」の中で、その実相を記しているのでご紹介します。
 『今日は西霊の金神(西霊に属する金神、金神は物質、物力、霊力を司る神 であって、この日は金神を支配される上なる神が、金神を伴われて西霊から東現に下られ、現界を巡行される日)における、重要祭日の最終日に当たる月でありその日である。
 夕刻、招かざる客として門下の桑原君、八重女を伴い来たりて、参座の許しを乞うた。午後9時、特定の神饌を供えて祭りを行う。
かたちを正して?を調えるや、祈りが進むにつれ西天より神光閃きわたり、まるで光明の素晴らしい驟雨である。
私は一瞬に四体積透の法術を以て霊界に参進した。勿論、現界の祭りそのものは、肉体に委かしたままである。
 此処霊界の大地に座して、西霊に向かって一心に祈り続けた。
突如、西空が輝き出したが、團々たる大光明に変じて、地上に降って来るようである。大光明が天空より徐々に移動するごとに、光團は光雲を巻き起こし、光雲は光雲を招いて大光明の光團を包囲した。光團は光雲に乗じて徐々に落下するのであるが、其の光明は刻々に荘厳を変じ、色光を変じ、漠々たる彩雲は終に黄金光明の大雲海を現じつつ、目も眩い限りである。
大光明は急速に降度を増したが、瞬時にして眼前に降った。その中に、私は神姿を拝することが出来たのである。
尊くて拝伏しつつも、しばし感涙で面も上げ得なかった。
私は今日にして、初めて真の宝亀というものを、かつて神霊からそのもののことは伺ってはいたが、自分が想像していたものとは問題にならないものであったが、今、手を取る如くありありと、しかもそれは、生きた霊物というより神におわすのである。 
 荘厳にして、その其の物凄さは、ただ身も竦むばかりである。しかもその尊さは、何ともかとも称えようがない。
この霊物こそ、今霊物に駕せられて、目前宙空に示現し給える大神の、眷属でもなく又従神でもない。即ち、大神自体の動におわします応変の御姿に他ならないのである。
 その宝亀ともいうべき霊物を、今日初めて目の辺りに拝する資格を許されたのである。
 白鳳、金龍、宝亀、何れも神界に生き通しの自然霊というより、今記せし如く、神々の動における応身におわすのであるが、これ何れも尊き天冠神にましますのである。
 ?鶴、麒麟、又然りである。俗人、神、霊、幽、現の実相に無知であるが故に、これらのものを中国に於ける想像上の神秘な動物となしているは、片腹痛いことと言わざるを得ない。
大光明の中に浮揚示現の宝亀は、畳二枚分程の大きさと思われるが、亀甲巌の如くして全身灰白色である。しかもその亀首は動物の亀ではなく、龍に似て龍に非ざるものであるが、形容な言葉が無い故に、仮に龍と記しおくより仕方がない。
 両眼は神秘荘厳、爛々としてあかねの如く、四足は物凄い龍足、龍爪である。亀甲の後半より亀尾にかけて緑毛に覆われ、長く後方に引いている。
 宝亀の全身より光明の大火焔を吐き、亀首、亀足は燦然たる?光の光明を廻〇され、亀首四足を動かす度に、物凄い巨大な黄金の霊光を発せられるのであって、全身より吐かれる光明の大火焔は、これを現界に比するに何物も無い程、尊くて壮絶な有様に拝された。
宝亀の背に大神駕し給う。これまた現界に比すべき何物もない、巨大にして荘厳なる宝石の数々を飾られた黄金の宝冠を戴かれ、童顔の老翁神におわします、
白髪み胸の下まで垂れ、神衣は金襴の黄櫓染の如きものを召し給う。神身光明を廻〇し、宝冠又燦爛として光を発し電裡変更するところ眩しく、とても神顔を拝することを許さないのである。
ただ、その電光の合間にのみ拝されるのである。漠々たる上下四面の彩雲の中に、大光明を背光とし、宙空を遊泳、光雲に浮揚する宝亀は、この時、突如としてその物凄い亀首を上下にゆり振っていたが、天を仰いで咆哮するかと拝されたが、あまりの凄さに思わず慄然として伏した。
 その時、私は頭上はっきりと神の御声を聞いたのである。即ち、神のみ言葉が下ったのである。私はただ涙が溢流するばかりであった。御答え申し上げる言葉も出ない。

 使神を以て一書を賜る。謹んで恭しく拝見したが、驚愕した。この一巻には、西霊から私に賜る現業の将来における金力、即ちこれは現界における銀行の枠というものでは無い。
神から賜った金力の枠とも云うべきものであって、その枠の金額迄、即ち金力の範囲が額として明記されていたのである。夢にも想像したこともない、単位も仙羽鶴に等しい膨大なものであった。
 即ち、神門六十六門の、その格に於ける賜りものではあろうけれども、これが裏付ける、縁?を招致すべき我が「行」一つにかかる重さは、恐らく生易しいものでは無いのであろう。神のみ言葉なれば謹んで私は拝頂したのである。
 神上がり給う。私は即時、現界、現身に帰った。御祭りに参座した者それぞれに、格に応じ、行に応じたしるしの、下賜の霊宝を霊視した。
「汝の霊妙を踏み、その祈りは最早、無限の彼方まで通ずる」と、かつて主護霊は紫風の斎庭の霊言で云われたが、漸くにして天冠神界の一点に通じる力が出来たのであろうか。』