「夭折した次兄道雄が、三度私の元に−」 |
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それは昭和53〜54年頃の、そして冬のことでした。と言うのは、3度目の夢は炬燵でのうたた寝で見たのです。
32歳で勤務していた総合統計研究所の名古屋支社長に赴任するまでは、ビールコップ一杯も飲めなかったのに、5年9か月たって本社に戻った時は、大瓶1本ではちょっと物足らないまでに成長?していました。
独身の私は両親と3人住まいで、毎晩晩酌の慣習はありませんでしたが、時折、夕食前に新聞を読みながら、貰い物のウイスキーを少々嗜むことがありました。
その日、家に帰ってこたつに入り、夕刊を手にして「さて、ウイスキーを」と茶箪笥に手を掛けた時です。
「今日は飲むな」。それは、第2話で私に「お袋に小遣いをやれ」と教えた、“はっきりとした声なき声”ではなく、微弱な電波のような思いが、ポット脳裏に浮んだのです。
「何だろうー」。 大分後になって気が付いたことですが、それは、第6話・その2「今のは益太郎霊人です。良かったですねー」で、叔父の寿命のことを教えてくれた祖父益太郎の霊でした。今宵、道雄兄が私の元に訪れるのを知って、多分飲酒が妨げになるのでその様に教えたのでしよう。
そのまま炬燵でうとうとすると、そこに道雄兄が来ました。そして半紙を折り畳んだものを私に渡して「宗っちゃん、これお世話になった人に。余ったら宗ちゃんにもね」
そう言うとふと居なくなりました。「おや」開けてみると、一万円札と五千円札が一枚ずつ入っていたのです−。
それが道雄兄の三度目の訪れでした。不思議なことに、初めての訪れのことは、つい昨日のことのように鮮明に眼前に浮かんでくるのですが、回を重ねると、過ぎ去っていった歳月と反対に、記憶が一層茫漠となるのです。但し、この一万五千円とその言葉だけは、今でも鮮明に思い出されます−。
兄は沢山の方々にお世話になりましたが、特に、と思い浮かんだのは、前回記述した麦林楢次郎さんと、北原猪義さんのお二人でした。北原さんは父の長年の知己で、三光太源門下生の筆頭でした。物心共に大変お世話になった方です。しかし、昭和51年他界されました。
私は三鷹にある北原宅を訪れ、半金の七千五百円を半紙に包んで神棚に上げ、北原さんの御霊に、道雄兄への生前のご厚情のお礼を申し上げました。
「道雄さんって可愛いわね−」今でも私が叔母さんと呼んでいる北原夫人は、そう言って大変喜んで呉れました。
次は麦林さんの番です。ところが麦林さんは、あれだけ父と心を通わせていたにも拘らず、何か複雑な行き違いが生じて、交際が途絶えておりました。そして、何時の間にか、明大前のお宅を売却して,何処かに引っ越してしまっていたのです。
電話番号だけは判っていたので、何日かに亘り、何回も何回も電話したのですがつながりませんでした。
とうとう差し上げることが出来なかった七千五百円、このお金は私がもらって良かったのでしょうか。そのことを尋ねたくても、道雄兄の四度目の訪れは、三十余年経った今日まで無いのです−。
ところで、祖父益太郎は、生前熱心な日蓮宗の信徒だったとのことですが、父が神霊研究の道に入って行業を重ねると、死後数年を経ずして父の元に出現しています。そして、私が二十歳の頃、「益太郎がお前の背後に立った」とローム太霊から教えられました。
この背後とは「支配霊」のことで、自分の五代前までの先祖の中から、乗り越えなければならない困難に立ち向かう時などに、特定期間、その人間に助勢するため、上の神の計らいで背後に加わるとのことであります。
以降、小泉益太郎霊神として日々の祈りに加えて、半世紀余の歳月が流れました。その間に、第2話での現象以外にも何回か、私への諭や助言が微弱な電波の様に脳裏に浮かぶことがあり、いつも「益太郎霊神が身近にいる」ことを実感しました。
なお、「往々にして、その背後の生前の嗜好や癖なども引き継ぐ」とのことで、父は晩年、私が囲碁を趣味とし、又枝豆が好物なのを知って「その二つとも、お祖父さんが好きだった−」と述懐しておりました。