小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
平成29年7月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第一話
第33話でお話ししたように、父小泉平一は昭和57年5月1日胃がんのため都立広尾病院で死去しました。79才でした。崇高な使命を与えられ、高い神々から様々な啓示、霊言によってその達成を約束されていましたが、ついに果たされませんでした。
葬儀が終わって6月の三鷹での物理降霊会で、私がローム太霊に「父が生前大変お世話になり有難うございました」とお礼を申し上げたところ「惜しいことをした」太霊がしみじみとした口調でその様に言われました。
それから何時しか三十余年の歳月が流れ、私は父が他界した年を超えました。私に託された使命の一環として、数年前にようやく「最後の物理霊媒・竹内満朋の物理降霊会でローム太霊が講話された死後の世界・神霊界の実相に関する研究「を上梓致しましたが、私の元にはまだ、膨大な神霊界と人間に関する秘事の記録が残されております。
私が残された生涯において、これらをどこまで後世に残すことが出来るのか、その思いを胸に、それらの記録を生み出した背景となる父の達成できなかった使命と、そのための戦いの軌跡をお知らせすることと致します。
第一話 若き日の武勇伝「タクシーに撥ねられたら空中に飛び上がって−」
平一は明治39年11月1日京橋区木挽町1丁目6番地で荷造り材料を商う小泉商会小泉益太郎と花の長男として生まれました。岐阜の高木家に生まれた益太郎は、如何なる縁かは聞き漏らしましたが、跡継ぎのいない小泉商会の小泉平輔の許に、花と夫婦養子に入りました。
しかし益太郎には五十を過ぎるまで子供に恵まれなかったため、花の妹が嫁いだ水野家から龍之介と云う子供を養子に迎えておりました。「龍之介兄さんには可愛がってもらった」平一はそう云っておりましたが、龍之介は益太郎に実子が生まれたために行きどころを失ってぐれてしまい、ついには養子縁組を解消した挙句、早くして没したとのことで、祖霊を祭らう盆や彼岸の祭りにはその名がありませんでした。
平一は始め一仁と名付けられましたが、いつの頃かは聞き漏らしましたが、ある占い師の勧めで平一に改名したとのことであります。
大正11年に生母の花が病没し、近くの銭湯・柳湯の主人の紹介で、小野塚まさが後妻に入りました。まさは寺に嫁いでいたことがあったとのことで信心深く、日蓮宗に帰依していた益太郎と相性が良かったようで、その縁で後年姪の小野塚さきが平一の許に嫁いだのです。
益太郎には商才があり、小泉商会は一時仙台と神戸に営業所を設けて手広く商いをしていたとのことで、その当時の古いセピア色の写真が何枚か残されております。ところが、詳細は判りませんが出入りの柳生と云う人の借金の連帯保証をして引っかかり、そのために株式会社を縮小して有限会社にしたとのことで、その時柳生から預かった担保の品々は空襲で焼けてしまいましたが、一枚だけ一メートル四方もある南画が、今も残されております。
平一は一人息子の若旦那として皆から可愛がられて育ったようで、学校は商業学校に進学しましたが 「好きな学科は出来が良かったが嫌いなのは駄目だった。つまらないので途中で辞めてしまったそう云っておりました。
若いころの話はほとんど聞いたことが無いのですが、一つだけ後年、門下生に話した次のスピリチュアルなエビソードがあります。
それは平一が独身で恐らく二十歳前後のころだった思われます。勿論、神霊の道に入る前の出来事であります。
「ある雨の日、雪駄を穿いて唐傘を差して歩いていたんだ。すると向こうからタクシーが来た。危ないな、と思ったらふと意識が途絶え、我に返ると沢山の人だかりができて、そして皆拍手してすごいすごいと言うんだよ。
『どうしたんですか。』 そう聞くと私がタクシーにぷつかって、バンパーで撥ねられて危ないと思ったら、傘を差したまま空中に飛び上がり、そのまま1回転してすっと地面に降り立ったんだそうだ。きっと名のある武芸者に相違ない。それで人が集まって来て 手を叩いていたんだよ」
『ねえ、お名前は何とおっしゃるんですかとか、どんな修行をなさっているのですか、』なんて聞かれて、恥ずかしくて恥ずかしくて、こそこそと逃げてしまった」
今だったら夕刊にでも載るような奇跡譚、恐らく『土地神様と背後霊のご加護』のお蔭だったのでありましょう。
完