「天下取りを目前とした武田信玄は、何故三方が原で亡くなったか。
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史実によると、武田信玄は1572年(元亀3年)に西上の軍をおこし、徳川家康を浜松城外三方が原に撃破して三河に入りましたが、病気が重くなり、療養のため帰国する途中信濃の駒場で没したとされております。長年に亘り天下取りの計画を練り上げ、満を期しての出陣であったために、この俄かの重病は謎とされております。
また信玄の強大な軍事力の背景には、海外の最新技術を導入して開発して得た、莫大な甲州金がありました。そのために、諏訪湖の湖底に沈めた、重臣の穴山梅雪に秘匿させた等々、各地に埋蔵金伝説が残されておりますが、未だに発見されておりません。
この謎に関して、小泉平一は霊夢でこのように教えられたと日記に記してあります。
昭和24年3月25日 小泉平一の日記より
うつつの境にありて霊眼に映り来るものあり。一つの物語を映ず。内容先の如きものなるも、甲斐の武田家の秘事に属するものなり。
甲斐の武田信玄公は新羅三郎義光公から出ず。幼きより先祖を尊信すること大方ならず。又神仏の信仰も厚き人なり。大事を決するには必ず一室にこもり、霊感を受けて事を決す。
(公のこれをなすを、当時は家人共、公禅定に入ると云う)
この一室は小なる堂にて一人座せり。如何なる者と言えども、許可なくしては出入りできざる如し。出陣に際しては、又諏訪明神を祭り源心公(義光)の甲冑,楯無しを祭り、勝利の祈願をなす。この時に又霊感下るなり。信玄公に霊感与える神は黒狐霊神なるを霊眼で見て余驚けり。即ち、楯無をひむろぎとし黒狐霊神かかり給いて公に霊示告ぐるなり。
平一が驚いたのは、その黒狐霊神が自分の守護神だからです。
神霊研究の道に入った若き日の平一の前に、いにしえの武人の出で立ちの高貴な神霊が出現し、自分は清和源氏の祖森羅三郎義光である、汝を守護、指導するので源心霊神と祀れと言われました。今回の研究に取りれた「G人間の死・幽界への旅立ちについて」にある“平一の母花が平一に見せた死後の有様”も、源心霊神の計らいでありました。
ところが後年になり、源心霊神は実は義光公の生前の守護神の黒狐霊神の応変であったことが判り、以降黒狐霊神として平一を指導されました。その方が武田信玄を指導しておられたので、驚いたようであります。
なお、黒狐霊神も仮の名乗りで、平一の霊格が上がった晩年になって、雲祥?照乗霊神というみ名を明かされました。平一は、この方は上位の天霊神あるいは天冠神で、清和源氏の系統を守護しておられると言っておりました。
公はこの霊示を祖霊義光公よりの霊示と思われし様なり。公の軍略は又義光公の御霊の指導せられしところなり。時には又、公の霊眼も多少開けおられし如きふし余に見ゆ。黒狐霊神の眷族白狐の形をとりて公を守護する時なぞ、この白狐を諏訪明神の使神なりと公は信じおられし様なり。
公好みて禅をなす。これ即ち余の云うところの精神統一の修行なり。公これに種々不思議起こるも、家人に秘して漏らさず。ただ一人の家人にのみ少しのこと漏らせり。この家人を公は余程信頼し居られたるものの如し。原隼人正*と言う武将なり。かかる家人史上に有るや否や余知らず。
ある時の出陣にのぞみ、公、楯無の鎧を祭り一堂に坐して統一独座せり。公、神憑りて紙に符と呪を書く。この時霊示あり。この度の出陣には汝が符を書きたるその紙にて全身をよく祓い清めて、終わりに流れに流せと。
公,符にて全身を祓いその紙を捻りて一堂より立ち出ず。堂の外に侍女侍りいたりしが、公うつつ心に独言して曰く「あやふき事なり、かたじけなき事哉」と云いて、手に持てる紙を侍女に手渡し、「流れに捨てよ」と。
侍女この紙を受取り、ためつすかしつ見てありしが心に思うよう、かたじけなき事哉と仰せありたれば、この符を書きし紙は尊き神符などにてやあらん。密かにいただきて、これを護り本尊などにもせぱや。など思いて流れに捨てし如くに見せかけて、己の室にひそかに持ちかえり、持佛だんの中に納めて礼拝せり。
公、翌朝出陣せり。この戦いにおいて何がしの城攻めに際し、月明の夜、公、敵情を見んとして心やすくも城辺を逍遥せり。この時、公、鉄砲にて撃たれ、そがもとにて歿せしなり。