小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話G)2024年2月


令和六年二月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」

 平一は昭和39年8月28日から「術というものについて」という命題で講義をしております。講義は数回に及び、平一の「術」に対する思いの深さ。重さがが偲ばれます。
 「自然は法に則って存在し、道に運行して玄妙を示しているが、人間も又大霊の垂訓のように法、道、術の上に命を頂いて存在しているものである。
 法は即ちノリであり、そのノリから道が生じる。そして道から変化して術が生ずる。故に人間生活の上に道有り術がある。
 神は人間にその術を会得する能力を、自然の内に与えられたのである。術は現と幽との両者それぞれに分けることが出来る。
 現のものとは即ち芸術であり、技術であり、学術であり、医術であり、算術であり、又戦術、武術等枚挙にいとまがない。又、低俗なものには手品、奇術がある。そう数えてくると、人事百般、いずれも術の範疇から脱することは出来ない。
 同事に属するものに催眠術あり、又占星術あり、霊術が存在する。霊術の中には呪術あり、祈法の術あり、霊視の術あり、交霊の術あり、高級な物には道術あり、仙術がある。これまた枚挙にいとまが無い様である。
 試みに「術」という字を字引で引いてみると、(一)技芸、わざ (二)はかりごと (三)てだて、手段方法 (四)魔法、となっているが、厳密に言って技と術は違うし、はかりごとや手法、方法と術とは異なる。
ただ、世人、術を解明するに暗い故に、これらのものの代名詞のように思われて来たらしい。技は何処までも技、術は何処までも術である。
 では、術とは何ぞや、ということになる。神霊は、「術は道の変化(へんげ)である」と教えられておられる。
 然しながら、現幽両面、何れの術であっても、あらゆる術というものは現幽一如の法によって存在し、常に神、霊、幽の力が加わって、道に玄妙の変現を来たし、それが術に変化(へんげ)していくものである。決して、現の力だけでは術が存在するものでは無いのである。
 例を医術にとって説明しよう。医師とは病者を癒やしめよと云う命を持った、医術を使う職業である者を云うが、まず医師は医法を学ぶ。即ち医法は医の道と技(わざ、腕まえ)に対するノリであり、医学とは道、技を学ぶ学問である。
 医には技に従う道がある。病者には養生、投薬という道を教え、医師自身病状を診断して、適切な処置、投薬をしてゆく、これまた医の道である。
 そして、その道に熟練、上達すると、練磨と共に会得してきた自身の技が、時に当たり事に触れて縦横無尽に発揮され、その力が最高に至った時に、他の人の考え及すことの出来ない迄に、深く沈潜している病根を突き止めることが出来る。
 そして、処置の上に配薬の上に、或いは手術の上に、頂上に達した自己の技は、その時に至って率然として霊妙な道の変化を生じて霊感を伴い、所々に人知を超えた玄々の妙を発し、不可思議の奇効を現ずるのである。これを術と名付ける。
 芸術又然り。技術又然り。現幽両面のあらゆる術又然り。人事百般術とは全てこの如きものである。
 道から術を会得する者、技から術を会得する者、神から術を授かる者、自らの師から伝授されるもの、苦の中から術を悟得する者、真に色取り取りである。

 業を磨くということは、実に重要なことである。技は元々道のものであるけれども、決して一つのものではない。道は道であり、技は何処まで行っても技である。
 技が道に入った時、(入った時とは、技は道から出たものであるから、又元の道に返った時)技は術の母体となる。だから術が入神に至るならば、自身、自覚すると否とに拘わらず、それは又術の名人ということになる。故に、技の名人こそ亦術の名人であり、真の術者と言えるであろう。
 人生に於いて、術程大切なものはなく、心の底で萬人が欲しているものなのである。人生にあって、術者であると否とは、まことに天地雲泥の差が生ずる。
 あらゆる術は霊能の部類に入るが、人間に術を与えられたということは、洵に偉大なる神の恩慈であるけれども、人生の道に於いて術を得ることが出来たとすれば、これこそ本当の宝と言って過言ではないのである。
 何故なら、現の術にあっては、画にせよ書にせよ、工芸にせよ、或いは他の芸術にせよ、その技を高めて自己の立派な術に迄することが出来るなら、常に人に勝る素晴らしい特技を発揮することが出来るのみならず、その人間の賢愚に拘わりなく、ただその術あるが故に、他にぬきんで他を制して声価を高めるのみならず、人には頭を下げられて物にも恵まれ、猶かつ、後世にも不朽の名を残すことも出来るのである。
 また、画の部類に属する霊術の上手、名人ともなれば、前者に劣らず常にその力を崇められ、頼られ、称えられ、杖とも柱とも思われるのである。これまた、人間の賢愚を問うことなく、人はその術の前に頭を下げる。
 かつ又、前者も後者も、自己の存在を高からしむるのみならず、その術によって世の為にも、人の為にも、どの位い尽くすことになるか、計り知れないのである。
 皆に授けられたその術は、霊術あり、道士の術あり、童神の術あり、海仙の術あり、山仙の術あり、誠に百花繚乱としているが、俗なる占術とは元より異なる。
 また、そうあっては術の光は失われてしまう。俗なる占術は、その結果は示すことが出来たとしても、道を示して道を正すことに暗い。
 人に正しい指針を授けて明日への道を示し、起きた悪を光明に変えしめ、その人間の心を正していく術でもある。そして安心の燈火を常に掲げて、人生の階段を照らしてやることが出来る。それは又、術の徳である
 今度皆が大霊から授けられた術こそ、実にこの如き術であるのである。勿論、先祖の徳ではあるけれども、各人の行證とその至誠に感応して霊縁因縁の不思議により、三光道大神の恩慈を蒙ることが出来たのである。 
 それだからこそ、万人が求めて求め得ざる幽玄霊妙の神法を賜って、神の経綸に仕えせしめんとせらるる、宏大な神意ではないかと考えられる。
 そこをよく覚らなければ、その術を命として光らせることは出来ることでは無い。もともと各人は、先天的に技の天才ではない。技をむしろ、平凡に属する者達が多い。その平凡を、平凡にあっての偉大たらしめんが為に、大道を示して行業を踏ましめ、法を授けて格を求めせしめられるのであって、洵に偉大なる神業と云わねばならぬ。
 宜しく、教えられた事を知るのではない、覚るのである。
 如何程教えても、学ぶことの浅くして悟ることの薄ければ、命というその術を授けられた神は、「お前はただそれだけの人間なのか」と言われる事であろう。
 皆が学びつつある大道の垂訓は、とても難しいことだと思い込んでいるらしい。なる程、人の知らない真理を学び取ることは、難しいことに相違ない。その上に悟りを求めて行けと、絶えず鞭打たれている。お釈迦様でもない限り、悟りなど開けるものでは無いと思い込んでいるのだ。
 難しいということは、易しいこと、易しいことは難しい事なのである。これも又一つの悟りかもしれない。ヤケドをするから火遊びをしてはいけませんと、いくら子供を叱っても、子供は火遊びに興味を持つ。ヤケドをして見て、初めて子供は身をもって火は怖いもの、熱いものと理解出来る。けれども理性で理解しても、又は感情の上で納得して見ても、それは悟りにはならない。

 大人なら、それを自身の悟りに迄すること出来るが、子供には出来ない。然し、自身の魂まで凍る程の強い衝撃を与えられた時、火は怖いものだ、本当に熱いものだと魂の上に銘記される、その時初めて火は怖いもの、熱いものと悟るのである。これは、熱いことを知ったのではない、悟ったのである。この小さい悟りを一として、悟りの高さを求め、深さを求めて行けよいのである。     
 では、悟りの正体は何であろうか。それは叡智に於ける明解であり納得である。悟りとは、自身の通ってきた道の、積んできた道の、修めてきた道の、その道が放つ光の閃きであった。難しく云うならば、その閃光を元体にキャッチ出来た時に、光は悟りに変ずるのだとも云える。
 道の光とは何んぞ。それは道の頂点に達し得た境地に与えられる道の輝き、道の霊感と思えばよい。
 術には術の法があり、術には術の道があり、格もある。これは少し難しい教えではあるけれど、自分の授けられたその術の、高さを完全に計ろうとするならば、術の法の深さを求めればよいのである。
 では法の深さを、何処に探ったらよいであろうか。其れは岳々の仙教をたずねて、西霊にその法因を求め行けばよいのである。   
 そして、その術の持つ力の範囲を覚った時に、初めて術の格を、そこに割り出すことが出来るであろう。
 格とは位である。資格である。ある者に授けられた術に対して、その人の主護霊は霊言を以てこのように説かれている。「そなたの術は、太陽系内の事ならば全部、この術において解決出来うるなり。人事はもとよりのこと」と示している。
 これが術の格というものである。又、もしこの術の格を一杯に使うことが出来るとするなれば、それは術を使う人間の力が最高に達した時である。
 又ある主護霊は、この様に云われている。「汝等に授けられたる術は、現界のみならず、死後の世界に入っても大変に役立つものなのだ」と。これは洵に大事なことで、本当の事なのである。」

続く