小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第10話2014年10月


スピリチュアル エピソード 第10話
平成26年10月30日



私の潜在意識を利用して伝えられた“茶の道とは−”



家内の章子は若い頃茶道に親しみ、その後長い間途絶えていたのですが、昭和の終わりの年に私と結婚して世田谷の赤堤に住むようになると、家から徒歩で20分ほどの永福町に、高橋先生というその昔の茶道の宗匠がいて、家で教えていることから週に一回通うようになりました。

私の家は、亡くなった父親の好みに合わせた純和風建築で、2階の奥に8畳のお座敷があり、床の間、違い棚、その横に備え付けの神棚があります。章子は茶道具棚を買ってきて床の間に置き、その昔使ったという茶器を並べました。

一方私は、若い時から日々仕事に追われ、その上神霊の道の研鑽もあって、趣味と言えば読書、それから上司や同輩との付き合い等から覚えた麻雀や囲碁・将棋などで、それ以外は自から積極的に求めて趣味を広げることはありませんでした。

茶道に関しては、これに触れる機会が皆無であったことから、作法も、いわんやその文化に無知であり、僅かに、歴史小説等を通じて利休やこれを愛好した武将たちの言動から、“茶道とはこんなものなのかなー”と思う程度でありました。

従って、章子が私に時折茶会の話などをしても、ふむふむと頷く程度で、その様な態度にいささか不満だったようでありました。


平成8年12月の夜のことです。その日章子は、高橋先生から宗章と言う茶名を貰いました。その時“章子さん、貴方にとってお茶とは何ですか”と質問され、答えに窮したと言って悩んでおりました。

“ふんー”その時私の頭に「形を求めてこれに専心すれば−」というコトバが、ポット浮かんできました。“ほー”すると「心やがて整いて 世事を忘却す」と続きました。

“おやおや、これは何だろう”。

すると、次に「形磨かるれば心静まりて、春風梅花を誘うべし」“ははー、これは茶道についての背後霊からの教えだな”私は何か嬉しくなってきました。

“所作極まれば心空となり”そこでコトバが途絶えて、続きが出てきません。暫くして私は“うん、だったら物事について、こだわりが無くなるのではないか、ではこんなことかな−”として考えたのが「己の欲するところは、全て掌の上に遊ぶ」というコトバでした。これは、昔読んだ西遊記で、孫悟空が広大な天上界を暴れまくってふと気が付くと、観世音の大きな手の平の上を飛び回っていたと言うことを思い出しての作文であります。

そのコトバを待っていたように“行き行きて尽くる所、茶の有り無しは−”そして、そこで又止まってしまいました。考えろとのことなのです。

これに続くコトバは何が適切なのでしょうか、“茶は不要なり・いや、それよりは−”、として考えついたのが「茶の有り無しは自在なり」というコトバでした。


このルーツは多分昔読んだ中島敦の小説「名人伝」です。

古代中国の趙の都・邯鄲に紀昌という男がいて、天下一の弓の名手になることを志して、諸国の様々な名人について修行を重ねました。

やがて、天下一の名人と称えられるまでになって,故郷の邯鄲に戻って来ました。邯鄲の人々は、さぞや素晴らしい妙技をと期待に沸返ったとのことですが、紀昌は一向に応えないばかりか、持っていた弓さえどこかに捨ててきた様子でした。

そのわけを尋ねると、もの憂げに「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と言ったとのことです。

そして、弓を執らざる名人として喧伝され、雲に乗った紀昌が古の名人と腕比べをしたとか、紀昌の家に忍び込もうとした盗賊が、家の中から出た殺気で転落したとか、神秘的な逸話を幾つか残したものの、期待された名人としての活躍が無いままに年老いて、“次のような妙な話”一つを残して“静かに、誠に煙のごとく静かに世を去った”とのことです。

その話とは、紀昌が死ぬ一二年前、知人の許に招かれたところ、その家で一つの器具を見ました。確かに見覚えがある道具なのですが、その名前や用途が思い出せないので、再三その主人に尋ねました。

主人は始めの内は冗談だと思っていたのですが、あまりの真剣さに、決して気が狂っているのでもなく、又自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだとのことです。

“ああ夫子(ふうし)が,−古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!”

“その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人はしつ(古代中国の弦楽器)の絃を断ち、工匠は規矩を手にすることを恥じた”とのことであります。

注)ローム太霊は道をきわめると術が現われ、術が現れてくれば名人となる、と言われております。

それを待っていたように、頭に浮かんだコトバが「唯にまなこを 閉ざすのみに非ずや」でした。

完成した言葉を、パソコンで清書して章子に渡しました。


宗章に贈る


形を求めて これに専心すれば
心やがて整いて 世事を忘却す
形磨かるれば 心静まりて
春風 梅花を誘うべし
所作極まれば 心空となり 
己の欲するところは 全て掌の上に遊ぶ
行き行きて尽くる所
茶の有り無しは 自在なり
唯にまなこを 閉ざすのみに非ずや

ム(私のペンネームです)


私に語りかけたのが主護霊なのか、他の背後霊だったのか、あるいは、章子の主護霊なのか分かりませんが、これは所謂自動書記(手に持っている筆が、ひとりでに動いて霊言を書く、あるいははっきりとした言葉が耳に聞こえてくる等)ではなく、ところどころ、私に潜在意識・古い記憶を呼び起こさせて、コトバを造らせております。

従って、このコトバに、果たしてどれだけ普遍性があるかを知りたくて、茶道を嗜む何人かの友人知人に、この様な経緯は言わずに提示して感想を聞きました。

是非、貴方の感想もお聞かせくださいー。                

以上