小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
平成31年3月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第二十一話
第二十一話 イエスが賜ったバッバへの慈愛、
そしてエレミア霊人との別れが―。
昭和25年12月17日、平一の許に針生春代病気との速達が、そして間もなく「母危篤」の電報が来たのです。差出人は「スピリチュアルエピソード第22話・とと姉ちゃんのパーティ―で見かけた大物女優のオーラ―の話」でお話しした、私達兄弟がお姉ちゃんと慕っているバッバの一人娘の南雲悦子でした。お姉ちゃんは勤務していた日本興業銀行に職場コーラスの指導に来た音楽家南雲巌と結婚して、戦災で住処を焼かれたバッバを連れて巌の故郷の新潟県湯沢村に嫁いで行ったのでした。
以下は同月25日の平一の日記であります。
「病人は半生余の家に仕え、又道雄の乳母なれば母も妻も心痛す。余八畳にありて霊示を乞い奉りしに『死』と見えたり。霊示明らかなりせば余も心に悲しみつつ、人今生死の境にあるなり。如何ばかり余や道雄に会いたからん。一目なりとも会いてやりたしと飛び立つ程に思えども、さて先立つものは金なり。情けなさに胸叩かる。一刻も争う時なり。今は意を決し、家賃に宛てたる金をかき集め、同日夜汽車にて急行す。」
今では新幹線で東京駅から1時間半余りの湯沢も、当時は長旅でした。夜明けに降り立った湯沢駅は雪に埋もれて人影もまばらでした。
駅員に西山と云う住所と南雲と云う名前を尋ねたのですが、西山は広い地域の名であり、南雲と云う姓は沢山いるとのことで判らず、とにかく急がねばと、雪の中を歩きながら土地神様にお導きを頼みました。
すると感応があったので、心を震わせ歩を進め暫く行くと、とある家の二階のガラス戸が突然開かれ、女の子を抱いた母親がその子に小水をさせたのです。
「思わず声かけて『湯香里堂と云える店(バッバの内職の様にやっている花屋の名)なきや』と聞きしに、2階の女、雪明りに余を透かし見えしか、アナヤとよびて『小父様、悦子です』と叫びしなり」
「余は悦子に抱かれんばかりにして、狭き家に入る。幾年ぶりの対面ならん。哀れにも看取り疲れたるかな、生活の苦もあるなるべし。垂れ髪の頃より余の助けに育まれ来たりし、心優しき乙女なりしが、今は2人の子の母なり。
キシキシときしる梯子を上がりて2階の病室に誘わる。病人うつろの眼にて余を見つめおりたりしが、余と心気づきや、やにわに痩せたる諸手をさし回して余の手をとらえ、胸に掻き抱きて声を上げて泣きじゃくるなり。
ああ、如何ばかりか余の子等を待ちおりしならん。されどその旅費なければ、余は幸雄も道雄も宗雄も伴い来たらず。唯感胸迫りて、涙流るのみ。悦子も縋りて泣きぬ。
このときなりき、余は何者かに一閃の衝撃を受け、思わず息氣をのみしなり。心を静め眼を彼方に見はりし時、見よ、見よ、今神の御光射しきたる。神光彼方より清浄荘厳なる光の海となりて、幾重の光の波となりて降り注ぐなり。
見よ、この時、光の彼方より出でて、病女の枕頭に来りて立てるは、光り輝きたる長身白衣のイエスならずや。
霊人、諸手にて病女の上に符を書き給う。一条の光ほとばしり出でしが、たちまち辺萬して病女の全身を包みたり。余思わず襟を正すとき、何者かが余に憑り、我に非ず余は強き息吹を病女に吹きかく。一瞬にして光消えしなり。この時,夜は白々と明け染めて、窓外は雪、鴻毛を散せる如し。」
病人の寝るのを待って平一は階下に降りて炬燵に入り、悦子から話を聞きました。
春代は8日発病以来熱が40度を下がらず,医師も3人代えて一昨日初めて病名がハシカとわかりました。その後病状が悪化し危篤となり、医師に何か方法がないかと口説いても頭を振るのみとのことでした。
ようやく医師が言うには、米国の薬でオーレオマイシンと云うハシカの特効薬を知人が持っているのを思い出したので、1日分4千5百円だが、それを試みるより方法がないとのことでした。大金でしたが命には代えられないとあがない、平一が来る少し前に飲ませましたとのことでした。
「それが効きしか、少し落ち着きたる如し、と語りぬ。その薬必ず効くべし、今少したちたれば熱計りみよと余悦子に勧め熱はからせしが、四十度の熱三八度に下がりたり。
同日夕刻に至り、三七度に下がり、夜に入りては三六度7分に下がりたり。医師来診し今日危篤を完全に脱したり。もはや心配なし。実に偉大なる薬効なりとつぶやきつつ帰り行く。家族の者も顔色あふれ来りて、薬効の偉大さに驚嘆の眼を開きしなり。」
十一時ごろになると病人は食欲が出て粥をすすり、そしてすやすやと眠りについたのでした。
平一は厳しい寒さに寝られず、近くにあると言う公衆温泉に行こうと場所を聞くと、お供しますと言う悦子に案内され、村はずれの無人の浴場に行きました。
そして温泉につかりながら、悦子からの母危篤の知らせに駆けつけてくれたのは、新潟にいる妹の冬女だけだったことを知り、人情の薄いことを、この5年間平一が置かれた苦境に照らして涙するのでした。
そして、幸薄く物心がついた頃父を亡くした悦子が、母の春代と小泉商会に来たこと、心映え容貌共に優しく孝心も厚いので、妻のさきと共に骨肉の娘の様に愛したこと、そして子供らの面倒をよく見てくれた昔を思い出して、
「ほのぼのと立ち込め来る湯気の如く、温かきもの我が胸に通い来て我がいとおしみ、悦子の白き胸に通いゆく時、計らずも余は、孝女の至誠天地を揺るがし、神の栄光ここに現れたるを、いま、知りしなり。」
「二十日辞去するに際して、病人すやすやと眠り居たりしが、余密かに病人の額に符を書きて病人の目覚めるを待ちおりたり。
しばらくありて病人目を覚まして言えるに『今夢の中で旦那様が(余を指す)頭の痛いのをとってやるとおっしゃって、頭の上にお加持をして下さったが、スウ―としてとてもいい気持ちになったところで今目が覚めましたが、頭の痛いのが本当に治ってしまいました。不思議な夢ですね。』と目を輝かせり。一段の生気顔面に上がり来る。二時二十分、余は湯沢を発したり。」
そして昭和26年4月25日エレミア霊人が去って行かれました。
「『汝が通りし道、後を追う者あれども後に続く者はあらじ。汝は神意を受けし者なればなり。
我今汝と離れるとも―、我より上なる神に汝導かれん。栄光増すべし。』かく祝福し給いてエレミア霊人、余の背後より去り行き給う。
だだ、泪ぐまれて、御跡を暫し祈り奉れり。思えば一昨年の9月25日余の背後に立ち給いてよりは、余の半生における最も困難なる時代、24年から25年を乗天坊霊神と力を合わせ給えり。また、ヘルマン霊神と力を合わせ給いて、余を今日まで導き給えり。
霊人の如き偉大なる神霊にあらずして、いかで余が如き者をここまで導くを得んや。」
完