小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第三十二話)2020年12月


令和二年12月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第三十二話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第三十二話

イエスキリストからの霊言


 昭和33年5月5日の明玄秘録NO3には、このように記されております。
 「例年の通り5月5日のみ祭を行い、その後又例年の通り.とキリストの示現を祈ったのであるが、空漠から神光が閃く中に、キリストが示現して歩み来られ、我の前に立たれて、親しくこの啓示を頂戴したのである。」
 『人は奇跡を好むものなれども、すべてわけ有るものにして、かりそめのものに非ざるは汝も知れり。
 しかれども、遠きみ光を受け入れる身に器そなはるときは、そこに神の意志、奇跡となりて現はるるなり。積みに積みたる汝の祈りも、そのみ光をまぎよす力となれり。ときなる時に現はるるべき神のしるしをそのむねに受けよ。聖油にともさるべきそのあかりこそ、人の世の光となるべし。
 白羊の秘といわれたる汝の妻の病いは、神のみぞ知り給ふ。身に受けて捧げたる苦の光こそ、またたかき母のみ愛と同じなり。誰か贖涙の尊きを知らん。されど憂うるな、天の光降るべし。』
 この霊言について、平一は以下の様に解釈いたしました。
「人間といふものは、その信仰においても奇跡の下ることを好むものであるけれども、欲すると否とに拘わらず、奇跡そのものはすべて譯ありて起こるもので、決して偶然に起ったり、かりそめに起こるものでないことは、汝も知っていることである。
 しかしながら、無限の彼方なる神のみ光を、その身に受け入れることの出来るまでに、自身の資格が備わる時は、そこに於て、自身の願いに対して、神の意思が即ち奇跡となって現れるものなのである。
 積み重ねてきた汝の祈りも、神のみ光をようやくに招きよすることが出来る力となってきた。その時は又汝の大望成就の時期であるが、その時に現れたる奇跡こそ、かくなさしめんとするみ力の現れであることを悟り、かくまでのみ旨を受ける汝自身の命に対して、疎かに思ってはならないことである。
 大業と云われる汝の事業は、神業なるが故に豊野の石油は神の聖油である。その聖油にともされるであろう真業苦行の成就の祈りこそ、人の世の光となるであろう。汝の妻の病は、それ「白羊の秘」であるが故に、病の意義もその生死も神だけが知っておられることなのである。
 妻をして、かくその身を白羊として犠牲に捧げしめた妻の主霊の苦の光こそ、また高き母の大なる愛の光と同じなのである。白羊が流す苦の贖涙の尊さを知る者があろうか。されど妻の身を憂うるな。天の光が下るであろう。」
 イエスが平一のもとに出現したのは、第十九話でお話ししたように、昭和24年11月9日のことでありました。霊夢でエレミア霊神に伴われてイエスの元に赴き、『かしこに汝を待てるはイエスなり。良く語り、よく教えを受けよ』と云われて初めてイエスと対面したのです。
 以降、明玄秘録NO1〜NO7・昭和29年〜43年迄を紐解くと、12月25日のクリスマス、並びにローム大霊から、天照大神の5柱の皇子神(五男神の大神)が、世界五大宗教の祖となられた御祭りの日と教えられた五月五日に、イエスから8回もの霊言を戴いております。
 昭和31年5月5日の明玄秘録には次のように記されております。
 「過ぐる年の5月5日に、初めてキリスト西霊より来られ、親しく拝して霊訓を示されたる日にして、余が苦の絶頂にありし時なり。かつて石門道の苦業に行き悩みたる時導かれしエレミアと、キリストを共に祭る。今、神光空漠の彼方より閃閃又閃々として下るなかに、霊光さんさんとしてキリスト示現され、この霊言を賜りしものなり。ローム大霊の支配霊としての隼人霊神の如く、エレミアはキリストの支配の霊神におわすことを知らされ覚りき。」
 『わが通りしナヤの道は迷いの道なり。精霊我を導きて、その道に贖いつつも、なおその悟り身につくこと能わざりき。幻あり、我が前にありて云う。汝は神に證しうるやと。我、然りと答へたり。
 その道を汝も又精霊により導かれたるは、いかに険しくとも行きゆかばその證を得ん。
 道はかくあり。身も心も天に捧ぐべし。選ばれし者の、選ばれたる道として、その門通り得るものなり。
 汝のみの爲に非ず。くだされし神の思い、その胸にうけよ。』
 このようにイエスは、自らの歩んだ道を開陳されて平一を励まされました。
 そして昭和34年12月25日には、第話二十九話その2でお話しした様に、平一がイエスと同じ16氏族の系統であることを、同35年5月5日の霊言では、平一がその上に天界で神に仕えており、そして故あって現界に貶されたその秘のことを教えております。この驚愕の秘と平一の真の使命については、別途お話することといたします。