小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第十三話)2018年7月


 平成30年7月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第十三話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第十三話 3人の畏友に続く、菊池豊を
      始めとする地下資源開発の同志と
      その周辺について。



 平一は兄弟がいなかったこともあって、竹内栄一・後年の竹内満朋と義兄弟の杯を交わしましたが、その他にもう一人菊地豊と云う心霊研究の弟分がおりました。先月号でお話しした様に、豊の借家が空いたお蔭で、私達は今の住まい・世田谷区赤堤に疎開することが出来ました。
 どの様な経緯で知己となったのかは聞き漏らしましたが「自転車に蜂蜜を載せて銀座で売り歩いていた」そんな話を聞いたことがあります。又、後年竹内老子さんから、「御祖母さん同士が姉妹だった」と教えられ、その縁かなとも思っております。
 南朝の忠臣菊池武時を先祖とし、三井の大番頭三野村利左衛門の血筋だと聞いたことがあります、私の子供の頃は度の強い眼鏡に髭を蓄え、何時も温顔を絶やさず、学識が豊かで数か国語に通じ、日本画を趣味として私の家にも何点かの人物画が残されております。戦後は.婦人洋品を扱う仕事をして、確か自由が丘に店も持っていたようでしたが、どちらかと云うと商売が苦手、ところが反対に奥さんはビジネスに長けた賢婦人で一手に切り盛りしていたようです。
 そのために時間があることから、永年、地元の松沢小学校のPTAの役員を務めて交友を広め、新聞販売店主の川尻さんを始め何人かを心霊研究の仲間にすると共に、自宅で毎月一回、竹内満朋の物理降霊会「一龍会」を開いて、会員に垂示される霊言の解釈などへの助言を行っておりました。私は父と一緒に三鷹のゆにわに行っておりましたが、幸雄兄はこの一龍会に参加していたのです。
 又、戦後「世界言霊学会」と云う名で「自光」と云う会報を発行し、「言霊学」と称して言語が有する霊的な意味を明らかにして、その成り立ちから古代文化を研究すると言う活動を行い、初めての出版物には三笠宮が推薦文を寄せておりました。
 戦前から心霊研究の仲間内で一目置かれると共に、石油開発の同志として活動し、戦後後述する昭和24年の豊野油田の試掘にはそれなりの資金も提供し、昭和34年の太源石油株式会社にも役員として参画しておりました。
 平一とは「菊池君」、「小泉さん」と呼び合っていましたが、仲間内では平一のことを、病弱で?せていることから「青ちゃん」、竹内満朋の事は「お化け」と呼んでいたようでした。
 その様な平一の親友でありましたが、昭和36年ごろ「主護霊の霊言を読み違えたのだ」と平一が述懐しておりましたが、石油開発事業に限界を感じて「第一線から引退」致しました。そして38年12月に平一が日記に「長年の親友であり、神業の礎石の一人であった菊池豊君、卒然として西霊に赴く」と記した様に54歳で急死いたしました。
 戦争中、豊野油田の他に神霊から下された、石油、石炭、金、モリブデン等数々の鉱区の中で、特に大切だと言われたものに関しては、平一が竹内満朋を連れて実地調査に赴いたようですが、それ以外の鉱区については、もっぱら西宮仙陵と松本角之丞が担当した様であります。
 角之丞は古くから小泉商会に出入りしている計理士(現在の公認会計士)で、当時としては珍しい無類の心霊好き、平一がポチに導かれて心霊研究の道に入った時、色々と助言をした様であります。そして、仙陵は角之丞の経理の道での門下生で、小泉商会の経理実務を担当しておりました。その様なことから、これらの仕事も頼み易かった様であります。なお、角之丞は戦後も数年の間は石油開発の同志として活動しておりましたが、知り合ったある霊能者の霊言を巡って平一と意見が合わなくなり、去って行きました。しかし仙陵は、その後も長く小泉商会の経理を担当しておりました。
 吉江茂は婦人帽子の商を通じて平一と縁を持ちました。「ベルモット」と云う婦人帽子の会社が六本木にあり、その経営者が信州飯田の出で事業に成功したため、郷土から何人もの若者がこの店に身を寄せたとのことで、茂もその一人でありました。
 妹にるり子、道子と云う二人の姉妹がおりました。茂は昭和16年代に銀座の泰明小学校の前で婦人帽の店を経営して、二人がそこに勤めておりましたが、茂が兵役にとられたため、平一が神霊の指図でその店を預かることとなり、以降、二人は平一を兄のように慕い、平一が歿するまで交流が続きました。
 るり子は戦後竹内満朋の活動拠点になった「紫光会」の石野女史の許に、石野商会の店員兼「紫光会」の世話係として住み込み、「紫光会」の多くの会員達から慕われながら生涯独身で通しました。
 道子は医療商社に勤務していた山田武雄と結ばれました。武雄も平一の門下生になったことと、住処が京王沿線の芦花公園で近かったこともあって、私の母さきとは実の妹の様に交流し、私にとっては南雲悦子と並ぶ姉の様な存在になりました。
 茂は石油の同志として活動しておりましたが、戦後事業に失敗して困窮し、神業から離れていきました。しかし、茂を通じて飯田生まれの後輩の北原猪義との縁が生まれました。
 北原猪義は戦後六本木で「オーシック」と云う婦人帽子のメーカー兼小売のビジネスを始めて成功し、一時は十人を超える社員を抱えました。私の兄幸雄も大学受験に失敗した後、十年程ここにお世話になりました。
 猪義は早くから石油開発の神業に興味を抱き、その同志となる前から、小泉商会を義弟に譲らざるを得なくなったために困窮して、鉱区税の支払いに苦吟する平一に助力するなどの好意を重ねました。そして、平一の門下生の筆頭になると共に石油開発の同志となり、太源石油の活動に尽力しました。
 又、猪義との関わりから整体師青木謙悳との縁が生じました。青木謙悳は一時、乃木神社の禰宜を務めた神官であると共に、国会議事堂の地下室に治療のベッドを持っておりました。紫光会の古くからの会員で、内外に顔が広く、皆から一目置かれる存在でもありました。
 自宅で竹内満朋の物理 降霊会のゆにわ・「青雲会」を主宰すると共に、猪義が没した後の平一の三光太源会の筆頭となり、神業に尽力しました。
 なお、二男の義雄さんは謙悳の跡を継いで神官となり、五反田にある荏原金刀比羅神社の宮司の養子となって、紫光会を初めとするローム太霊の門下の、神道での葬儀を取仕切ってっております。