小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話F)2024年1月


令和六年一月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その7 神霊界の実相「大道について」

 ローム大霊は御自らが、竹内満朋を通じて垂示された教えを「これは大道である」と云われました。
 では「大道」とはどのような道なのでしようか。平一は昭和41年1月18日の三光道太神祭に捧げた奉献の文の中で、そのローム大霊のこの威徳を称えると共に、三光太源の斎庭で次のように講義しております。
 『大道とは、道の中の道であって、萬道の根本をなすものである。そしてその高さは道の根元を示し、その深さはその根本を顕し示している。すなわち、深さにあっては法、道、術を説かれ、高さにあっては、命を示して、光、空、無の上に?を説かれ、存を教え、在を説かれているのである。
 大道とは、紫風、紫光の道であるが、ローム太霊が示された行業一如の道であって、螺上に敷かれた道であり、教えである。そしてこの道こそ、神界、霊界、幽界、現界を貫いている道でもある。
 即ち、萬條諸道の根元であり、無上道であり、無比の尊い道と言えるのである。然らば螺を為すこの大道は何処から出て、道の大教は何処に発しているのであらうか。
 もとより、人間が造ったものでは無いことは当然である。ならば何から出ているかと云うならば、それは神から出ているところの道なのである。では一体、如何なる神から出ているのであろうか。
 仏教でいう八正道ではなく、すでに世間には大きな宗教が八つの道をなして存在しているが、これら宗教の道は、日本の古事記に著されている五男三女神から出たものと大霊の教示されたように、この八道を元にして、あらゆる教えが宗教と名付けられて、芽生えていると思われる。
 然し大道は宗教ではない。何故なら、大道は宗教の母体根元ではあっても、宗教を超えたところの道そのものであるからである。
 では、その神は現界をしろし召すところ神の中の一神か、幽界をしろし召す神の中の一神か、霊界をしろし召す神の中の一神か、否、神界をしろし召す神の中の一神であろうか。
 実にその神こそ、四天の八百萬の神をしろし召し給う天照大神に在しまし、天の御中主に在します所の太神の中の太神、即ち三光道と称え奉る太神であるのである。
 日本の古事記に云われている天照大神は、日神を指してその様に称えられているけれども、地球を中心としての太陽系内に於ける太陽の位置こそ、その様に称えられるのは当然と思われる。
 然し、無限に近い宇宙には島宇宙が幾億、幾十億あると太霊は垂示されているが、その大宇宙から見た太陽の位置は、おのずと違ってくるのは当然である。そして、日神は天照大神ではなく、おおひるめむちの大神が本当と思うと太霊は垂示されている。
 古事記にある天の岩戸に、天照大神が隠れられたと云うことの解説については、神道学的に、また、神霊観から見ての解釈など、今日まで色々の人が色々な説をなしてきている。
 太陽を日神、即ち日の大神とするならば、恐らく太古に於ける自然現象には日食にもまごう様な、太陽の光が陰る何らかの現象が起きたこともあったのではないかと思われる。そこで、くれぐれも注意をしなけれならないのは、太陽そのものは決して神そのものでは無いと云うことである。
 月そのものが神でないのと同じである。太陽も月も星も、それは一つの物質に過ぎない。それでは神とは何ぞやということになる。
 人によっては自然が神だと云う者もあるし、自然の働きをもって神と名づける学者もいる。或いは自然の働きそのものを法と名付けて、法そのものが仏である、又神とも云うという様な説をなす人もある。
 神は自然そのものでもなければ、自然の働きそのものが神ではないのである。神とは自然を司るもの、即ち自然の働きを司るものを神と名付けるのである。
 即ち、宇宙の法を司るものが神である。法とは法則である。本当に神というものが判らず、神、霊、幽、現の無知なものは、そうとより思われないのである。
 だから、太陽そのものは神ではない。太陽そのものを司る神が日の大神であり、おおひるめむちの大神なのである。
 太陽の活動、エネルギーは即ち日の大神の御力の現れであり、太陽の恩恵そのものは、即ち日神の御稜威そのものである。日神は大神の大神であり陽神であるが、神には四つの聖名あると垂示されるように、この大神の東現(現界)における働きと、霊界即ち西霊における働きとは、異なるものがあられるのは又当然であろう。月神、地球神、星神いずれも同じである。
 人間は空を指して天と言っている。神が居られるところを天とか天上とか云うが、神が居られる天とは、決して空の事ではないのである。どんなに空とか天に神を求めても、神は居られるはずが無いし、月にも太陽にも金星にも北極星にもそんなものはいないのである。
 神が居られるのは、日本の祝詞で云う所の所謂高天原である。神界そのものを云うのである。死者に敬意を表して「在天の霊」などと世俗で言う在天とは、厳密に云うならそれは幽界の一部、即ち南幽南東界の下層界の一部がそれに当たるのである。
 叉、一部の宗教が説く様に、死ねばすぐ天に昇って神の御許に引き取られるのだと固く信じている人がいる。
 或は、宗教家とか霊能者の中には、天地宇宙の大祖神から直接に天啓を受けたとか、天照大神がかかり移つってお告げがあったとか、何とかの金神から「お前は生神だから、何とか大神の称号を許す」と言われたとか、真面目に教祖なる人はそう信じているものもある。
 だから奇跡が起こったとか、病気が治ったとか信じているのである。幽界が実在し霊界が存在する以上、其処の居住者である霊達や自然霊が、現界に関連を持つからには、どんな道にも、宗教という道にも不思議を起こすことは当然である。
 佛仙界に縁を引いている動物霊とか妖精の集団は、時の勢いに乗じて力を振るう場合は、驚くように人集めもする。それらにかかられて動かされている人々は、霊魂の存在を否定し、霊界を否定しながら、久遠実成の仏身を説く矛盾を平気で信ずる。過去、現在、未来は常に空回りしてしまうであろう。
 天照大神ならずとも、使神に在します天冠神の高位の神が、人間に移りかかったとするならば、人間の身体はとろけてしまうであらう。
 例え神、幽、霊、現の実相に無知であっても、然しそれは又当然のことであろう。その人達が信じ,信仰してきた道は、それらの人々にとって無上道であり権威ある至上の教えである。
 如何なる道と雖も、それは高下、善悪に関係なく、何れもか神よりの命あって、やらせられている道なのである。そして、諸々の道は、いずれも真理に到達する過度期に於いて、起伏し、あるいわ明滅する螺の諸相に過ぎない。
 仏教でいう輪廻ではなく、大道の法則にある螺の大法によって、宇宙は螺転し、世相、万物も又ともに〇進してゆく。かくして、無限の向上を辿るのである。
 道も又同じく、この大法のきずなを脱することは出来ない。常に一の深さを求めつつ十の高さを追っているのである。
 今仮に、神というものの存在を一として、螺の道に当てはめるなら、時代、時代に於いて。その道は道から道を生じて、一から一を掘り下げてきた。そしてまた、幾度か一に戻っては、幾度か又十の高さをあれこれと求めながら、追っているのである。
 それは、ある時代にあっては、神を萬神と見たり、ある時代には神を一神のみと説く道も出てきた。又、時代、時代には無神論になったり、有神論になったりする。そして手探りながら、あらゆる道は神というものに対して、常に一の深さから十の高さを求めているのである。
 人類発生以来、道はこのように滔々として螺転〇進しながら、大いなる神意によってローム大霊、今時代において秘密の帳を掲げ、未聞の秘奥を垂示されたのである。
 そして、一においては、宇宙根元の真理の何たるかを解明した大法を示し、真の大道を示教して三光の神名を明かされたのである。もとより人間の頭脳によって説かれたものではない。偉大なる神霊自らに、現界に降り垂示されるところなのである。
 古今を通じ世界に、この如く四天の実相が、かくも整然と解明されたことがあったであろうか。垂示されたところを重ねて説くならば、神界は大きく内郭と外郭に別れる。外郭は全て内郭の統べるところであるけれども、外郭はすでに教えられた様に、東西南北四天に別れる。
 その四天それぞれには各自四界を属せしめ、三十六神が配されていることは承知していることである。そして各神界の天上は中心の太神、並びに配下神の大神、並びに使神の上位にある天冠神、次いで天霊神とによって構成され、各界を支配せられておるのである。』
                               完