ローム霊団の岩崎霊神について |
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前回、その有様をお知らせした「竹内満朋の物理降霊会」は、ローム太霊が総監督となり、ローム霊団のおよそ三十柱の神霊達が手分けして運営したとのことであります。
死後の世界で高貴な神霊は、簡単に何でもできると誤解されていますが全く違います。
崇高な太神や神々はさておき、神霊達はそれぞれの類別と階級によって、身に付いている術の数が決まっており、それ以上のことを成すには、より高貴な神々や神霊にお願いしたり、他の神霊達と連帯しなければ実現できないのです。
ローム太霊がご自身で、“顕幽を結ぶこれは大道・王道である”と称えられた、竹内満朋の物理降霊会は、この様に多くの神霊達が携わって成り立ちました。
このローム霊団での中で、御名が明らかにされていた神霊は、生前天仙と言う高貴な資格を得られた隼人霊神、妙高山の鬼奇神・妙高山玉造霊神、木曽義仲の乳母で妙高山の姥堂に祭られている妙高山姥姫霊神、竹内満朋の祖父で、生前中に妙高山山頂への道を開かれた妙高山重明霊神、そして岩崎霊神の5柱でした。
今回は、その中の岩崎霊神についてお話しします。
岩崎霊神は俗名を八十吉、竹内満朋の友人で、詳細は不詳ですが直江津に生まれ、20台で帰幽した方であります。
昭和10年前後の数年間、竹内満朋は現在の中央区銀座1丁目の小泉商会の3階に下宿していました。その経緯は、私のムーミステリーコンテスト受賞作品“知られざる物理霊媒竹内満朋”で紹介してありますが、その折に岩崎八十吉が竹内満朋を訪れて、一泊の宿りをしたことがありましたす。
そして、数年後に亡くなったようですが、如何なるいわれか、旬日を経ずしてローム霊団の一員となり、竹内満朋の背後霊となりました。
そして、小泉平一の日記によると、竹内満朋の昭和15年十月一日の降霊会で、平一の義母まさにこう言っております。
「お母さん、僕は直江津の岩崎です。こちらの世界に来ました。僕がお宅に泊まった時、3階で竹内君と寝ました。その時、南京虫に食われて困りました。今、三階に南京虫がいません。貴方方は薬が効いたとお思いでしょうが、あれは僕がいなくしたのです。僕みたいな霊でも、そのくらいのことは出来ます−」
3階にはその他に住み込みの店員も居て、南京虫に悩まされて困っていたところ、いつの間にかいなくなったので、珍しく“薬が効いたのかな”と思っていたとのことで、この岩崎霊神の配慮は嬉しかったと記してあります。
岩崎霊神の役割は、ローム太霊に関わりのある人々に色々と気遣いをされる、その様なことではないかと思います。私が参列した竹内満朋の物理降霊会で、時折、各人の主護霊や主支配霊、あるいはローム太霊が垂示された霊言について、“今言われたのはこの様なことですよ”等と囁かれました。
この“囁いた”と言うのは、岩崎霊神の声だけが他の神霊と異なり、ひそひそ話をする時の低音だったからす。そのために名前を言われなくても、今のは岩崎霊神だと理解できました。
では何故死後間もない岩崎霊神が、それも、生前、取り立てて何か精神世界の道に精進した様子が無いにも拘らず、このポジションを得ることが出来たのでしょうか。
この様なケースは、私が知っている限りでも幾つかあります。物理霊媒では、竹内満朋と親しかった萩原真には夭折した友人梶光之の霊が、津田江山の場合は戦死した友人今泉貞澄の霊が、 それぞれの降霊会の司会役を務めております。
巫女型霊媒の場合では、竹内満朋と小泉平一の恩師・浅野和三郎の多慶子夫人には24歳で世を去った子息新樹の霊が、浅野和三郎に見いだされ、土井晩翠、志賀潔を初めとする文化人や科学者に高い信頼を得た小林寿子の場合は、10歳で亡くなった息子和彦の霊が、ナビゲータ役を務めております。
また、小泉平一の神霊界の初学を指導したのは、夭折した友人の弟・杉山要三の霊でした。平一の昭和10年代の日記には、杉山霊人から教えられた、神霊界の様々な記録が残されております。
私はこれらのことを“交霊現象の際には、現世のそれに近い重たくて荒い粒子(波動)を持った、比較的純粋なエネルギー(こんなことをやり遂げたかった、と言った思いの力)が必要であり、そのために、霊媒の守護神が、それぞれ縁のある夭折した霊達の中から選出して、補助役の任を命じたのではないか”と推察しております。
来月はこの続きとして、 岩崎霊神が、一度だけ、降霊会以外の場で私に教えてくださった、その時のお話を致します。
以上