小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和三年8月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第三十七話
第三十七話
無二の畏友竹内満朋の生涯
竹内満朋は明治44年新潟県の高田に生まれました。青雲の志を抱いて京都、北海道を放浪した上で上京し、森永製菓に勤務して購買課長の職を勤めながら、中央大学で法律を学んで弁理士の資格を得ました。
昭和9年頃、第三話「父と後年の物理霊媒竹内満朋を引き合わせた、飼い犬ポチの話」でお話しした様に、小泉家の飼い犬ポチの霊に導かれた小泉平一と邂逅し、その導きにより心霊研究の道に入りました。
5歳年上の平一と義兄弟の杯を交わし、共に大本教を離れて東京心霊科学協会を起こした浅野和三郎に師事して研鑽を重ねました。
併せて、菊花会の小田秀人の元で、物理霊媒としての霊能力開発を努める内に、ローム大霊が主支配霊となられるに至って、物理霊媒の霊能力が開花し、東京心霊科学協会麹町支部等で物理降霊会を行いました。
終戦後、森永製菓を辞して弁理士事務所を開き、これをたずきの技としました。そして永年この仕事に携わり、晩年、その功により紫綬褒章を受章しております。
昭和24年1月に北村研の東京心霊相談所・白竜閣に参加して、同じ物理霊媒萩原真と共に物理降霊会を行って知己を広めました。
そして、昭和25年2月に竹内満朋を名誉会長に、長年の知友である寺見文雄が会長となって、ローム大霊のご教化によって会員の向上を図ることを目的とした紫光会を創設いたしました。
その経緯と、紫光会で行われた竹内満朋の物理降霊会、“会員の主護霊が霊言を垂示する主護霊会”と、“一般会員を対象としたローム大霊の霊訓の会”、並びに、“降霊会でローム大霊から真珠を戴いた少数の幹部だけを対象とした、真珠会とRP会(リーアル、パール)での講話”、並びに、“それらの会場を提供した、中央区新富町の石野商店店主石野芳子のこと”は、第二十二話『「紫光会」石野芳子とローム大霊の講話について』でお話しした通りであります。
又、紫光会で“毎年一回行われたローム大霊祭と4霊神祭”については、同じく第二十三話『「紫光会」でのローム大霊祭と4霊神祭について』でお話ししてあります。
これらの他に、紫光会で行われる年中行事としては、1月10日に行われた“天筆の会”がありました。
これは道院・紅卍会の扶乩
(フーチ)ふうちに類似したもので、太竹の真ん中に筆を括り付け、その一方を竹内満朋が、一方を会員が持ちます。すると、ローム大霊か隼人霊神が強い力で筆を動かし、床に置いた色紙に絵や言葉を書かれるのです。私も何回か参加致しましたが、其の竹を動かす強い力に、何時も驚かされておりました。
そして、其の画や言葉の神意を、平一は三光太源会の場で解説いたしました。
竹内満朋の物理降霊会は、この紫光会の他に、三鷹の竹内宅で平一を中心に開かれる紫風苑、菊池豊が没した後は川尻和人が受け継いだ一竜会、浅草の桑原時雄の元で開かれる示現会、乃木坂の青木謙徳の元での青雲会と、京都での聖光会、併せて時折、小田秀人の求めに応じて菊花会で物理実験会が開かれておりました。
菊花会での物理実験会を除く、各降霊会の参列者はいずれも十数人で、会費はその都度数千円を集めるだけでありました。
そしてこれらの降霊会は、昭和39年4月に竹内満朋が病に倒れる迄続きました。
一方、竹内満朋は生涯5冊の著書を上梓しております。
まず初めに、昭和26年11月に紫光会で「幽界旅行記」(第1巻)を上梓しております。
竹内満朋は毎夜就寝後二十数分を経過する頃霊魂が肉体から抜け出して、主護霊の案内で幽界、霊界旅行に出かけました。この著書はその模様を記録したものであります。
続いて昭和29年1月に、その理由は聞き漏らしましたが村上重明というペンネームで、同じ紫光会から「心霊常識」という小著を出しております。
昭和45年には、寺見文夫との共著として、ローム大霊の霊訓百十回分を編集した「ローム大霊講和集」を霞が関書房から、昭和46年3月には同じ霞が関書房から「魂の幽霊界行脚―死後の世界の体験記―」を、そして最後の著書として、昭和60年11月に株式会社産学社から「幽界旅行記」を出版しております。
これは、昭和26年の処女出版と同名でありますが内容は異なり、ローム大霊が真珠会で講話された、奇鬼神と天霊神の修行の行門を訪れた、貴重な体験が記されております。
但し、これらの出版はいずれも商業ベースに乗ることが無く、竹内満朋の元に入った印税はごく僅かだったようであります。
それは偏に、ローム大霊が竹内満朋の霊能力がマスコミに喧伝され、新興宗教化されることを危惧され、竹内満朋もその教えを順守して、一切のマスコミの誘いを拒絶して孤高を貫いた結果であります。
因みに私も、親友のつのだじろうに依頼されて、度々テレビへの出演を懇願したのですが、“いくら宗雄君の頼みでも、それだけは駄目だ”と拒絶されました。
又、降霊会においても、多額な寄進などを仰ぐことは一切なく、ひたすら日本酒を愛して、清貧の内に平成3年12月24日その生涯を終えました。
平一が没した昭和58年5月1日から、7年後の事でありました。
そして、その後、後継の物理霊媒は誕生せず、竹内満朋は最後の物理霊媒と呼ばれております。
完