小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話H)2024年3月


令和六年三月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続きその1

 幽冥界の居住者達は、術というものを得んがためには、どんなに難行苦行を積んでいるか計れない位のものである。奇鬼神達が72変化の術を得んがためには、人間の想像に絶した年月と苦業を修めておられるのだ。
 寅吉物語か何かの奇書に伝えられていることは、天狗は一昼夜のうちに、3度死ぬほどの苦しみをする。だから死後、天狗界に入ろうなどと思わない方が良いと云う様な事が書かれているが、この実相を云うならば、これは術の苦行を修めているということを指しているのである。
 霊達と云えども、幽界、霊界の空を自在に飛行することは出来ない。もしそれが出来るとすれば、それは彼らが使う術に他ならないことであることを知ってもらいたい。現世にあっても、術は他を制することが出来る。これは死後の世界にあっても当然である。
 まして幽界、霊界では、現世にあっての物力や地位や名誉は一片の反古にも及ばないのである。それらに替るものは、格と力と術が物を云うのである。
 では、どの様にして技を真の玄妙な術にまで変えて、いわゆる一能一芸に秀でんとするか、常に言う神霊垂訓の法を則として仰ぎ、行業一如の鍛錬という道を踏んで、まず自身の心を整え、人間の器を修めることにある。
 人の世には自らが会得した術に使われたり、振り回される者はあっても、術を使う者は稀だからである。
 立派な術を求めて、その術の高さをより以上に求めんとするなら、その術に劣らないだけの人としての器を作って行ってこそ、神から見ても人から見ても真の術者と言えるのである。
 このように術が道に帰った時、その術本来の光が増して来ることになるのだ。故に術を磨くものこそ自らを戒めて、常に天に謙虚であって、その道に真摯であり、而も忠実でなければならぬ。
 それでは術の極意(秘奥)に達するには、どうしたら良いかということになる。それは螺の大法に則れば、そこに自ずと道は開かれる。即ち、空の深さから深さを求め、空の高さから高さを求めれば良いのである。
 空の深さとは、自己の精神に妄想、雑念、或いは潜在意識等の夾雑物が漸く清まって、精神を統一させる状態が、統一無雑の空に近くなってくる。
 段々にその状態の深さに入って行くならば。自己の精神は所謂真空そのものに近づいていくであろう。
 なおも深さを求めるならば、自己が其処に存在するけれども、自己が無くなってしまう。完全に空の中に溶け込んだ状態になる。
 更に深さを求めれば、空に溶け込むのではなく、空の方から自分の方へ合体して来るようになる。その空の状態にあって、自己が無くなってしまったのかと言えばそうではない。自己はちゃんとそこに存在する。その状態を覚り、そのコツを会得するにあるのだ。
 では、空の高さとは何であるか。空の高さとは、統一無雑の精神が統一され、空に合体することが出来た時、それで宜しいというものでは無い。其の無想無我の統一された自己の精神に、自己が目的とする技に於いての?の波動を起こすことにあるのだ。
所謂、?そのものの波動である。そしてただその波動が、荒いか細かいかにある。
 空の高さを求めるにつれ、一の深さに帰り、又十の高さを求めるにつれて、?の活動は粗雑から段々と精妙に近くなってくる。そしてその状態の中に、一閃の「?光」を掴むことが出来るようになる。
 今一度云うならば、それは肉体を静に置こうと、動に置こうと、回転するコマが極まったと同じ様に、その澄み切った統一された精神の状態というものは、とりもなおさず霊的に見るならば、自己の霊魂はすでに肉体から離れて空間に遊び、空に合体しながらも、自己の活動している?は精妙極まりない波動となって、その空間の中に一閃の?光を引き寄せることにもなるのである。
 其の?光とはなんであろうか。その?光こそ、何々の術を支配されるそれぞれの神力と思えばよい。即ち、神力から放射されている?線の光である。
 この?光を引き寄せ、握り得て初めて法が術の力を発揮することになるのだ。ただ、その?光を握ることが浅いか深いかによって、術そのものの力に高低が生じるのは当然である。
 それを一瞬の間に掴むことが出来た時、所謂その術は技神に通じて入神の玄妙を発揮し、その術において最高の力が出る時である。それが術というものの秘奥であり極意であるのだ。これまた空の高さを求めて、そのコツを会得しなければならない。
 即ち、一における深さと十に於ける高さとの二面が、これ又各々縄なわれて、それ自体この様に螺をなしているのである。恐らくは人の世の術者と雖も、自身の術の秘奥というものがこの如くあることを解明し、或いは又悟った者は少ないのである。
 然し、この如きものであることを彼らが覚ると否とに拘わらず、又それを意識すると否とを問わず、術はこの如き過程に於いて技というものの道が、法に則って神の力の現れである?光に触れた時、此処に初めて術に変化(へんげ)していくものである。
 以上説いてきたところは、術の基本的な面における秘奥の一部を覗いたものだが、然しながら、全ての術の秘奥が全部此処にあるとは言えないかも知れない。何故ならば人間以外の霊達や、神仙、道士の使う術は、もともと論外の事である。術も高いものになると、霊宝や霊剣を使う場合もあるからである。
 更に亦、より以上の術の高さを求めんとするには、どうしたらよいか。それを求めようとするならば、まず自分が生まれてから、神によって持たされた本来の格を崩して、より以上の大きな格を求めて行く必要がある。
 と言っても、人間、自己の格を自覚することは困難である。では如何したら良いか。それには行業一如の行にそれを求めて、まず自らの心を修正し、心の器をより大きいものに、人間そのものの器をより以上大きいものに、変えることにあるのだ。
 それと同時に、もっともっと空の高さを求めて、空そのものの深さを追えば良いのである。さすれば、人間の云う空以上の「光」の中に合体することが出来よう。その中にあって自分が求め握ろうとするものは、「空そのものの中の?光」ではない、空そのもの以上の「光」の中の「?光」を引き寄せて、それを握ることにある。これが、より以上に高い術の極意なのである。
 この様に、空そのものと考えられるものに、行きつくことが出来たとしても、実際は其処まで行くということは、まったくもって難しいものと思われる。如何したら良いかというならば、行業の道を常に正して、心の行の練磨を宗とし、浄魂がまず一番の行である。
 ところが、これが中々出来ないのだ。そこで神霊はその「行」を補わせんが為に、法に則ったところの真言、即ち「?空無光真奇力存」という呪文を行せしめてそれを補い、かつ又、その真言の徳に於いて、与えた術の秘奥を悟らせんものとしておられるのである。
 空に行くために。空になるために、心を修めることを何故先にせよと云うのか。常に我はあるけれども、その我に囚われることの無い様、感情はあるけれども、その感情に囚われることの無い様、理性にあっても其の理性に囚われる事無く、叡智にあって叡智に囚われざる、統一無雑の境地に入るには、この法がまず一番早道と思われるからである。
 全てにこだわる心を浄めて、あらゆるものに溶け込める心の行を練るならば、空の深さを探るにしても、空の高さを求めることも、決して至難ではないからである。
 人間が神によってさせられる術ではなく、人間が道を践み修めることの誠を捧げて求め行く術なら、この法を則りとする必要があると思う。
 神によってさせられる術とは、霊能、技能、芸能そのいずれも先天性を与えられた、所謂天才を云うのである。「昭自展寵」と云われる石門を与えられたということは、こと更に天才でない人間にとって、この上ない有難いことなのである。石門(壁門、即ち人生の道の壁)の鳥居数々を立派に潜り抜けた人々は、自然と心の行を修めることが出来るし、相手の波動の中に空になって溶け込むことが出来る様になるし、心の患いも心のこだわりも、浄めて行くことが出来るようになるのである。又それを浄めなかったなら、決して高い石門を通ることは出来ないのである。
 それ故にこそ、空の深さに至り、空の高さに至ることも可能なのである。況や石門は、顕幽における自己の位を證する所の行門とするならば、その行門こそ霊肉浄化の門なるが故に、即ち浄魂への門を為すものである。それだからこそ石門の問いも、実に厳かでかつ厳しいのは当たり前である。
 真の浄魂なくして、霊格の向上無し。霊格の向上無くして、空より空の高さを求める事も、空より空の深さを求める事も、洵におぼつかないことである。
 この道理の故に、「昭自展寵」の関門こそ、人々にとって、又人間そのものにとって実に忝く尊い人間完成の門のみならず、成道、成術の門でもあるのだ。
 この行を修めるならば、祝詞にも云われているように、目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず。耳に諸々の不浄を聞きて、心に諸々の不浄を聞かず。身に諸々の不浄を触れて、心に諸々の不浄を触れず。意に諸々の不浄を思いて心に諸々の不浄を思わず。と云う様な心境になれて、自我のこだわりが浄められて行くようになる。
                               続く