小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話J)2024年5月


令和六年五月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その3

 全ての人間が完全であって、世の中が善、美のみの世界であるならば、どこに進歩、向上があるであろうか。善は悪があればこそ、その意義が光彩を放つのである。常に人間の背後にあって人間を指導している奇鬼神は、人間に霊感を与える力を持っているということは、前段の講義で説いた所である。
 俗に云う、カンがピンと来た等というカンは霊能の一つであるが、人間が生まれながらにして優れた霊能を付与されている人は、その人にとっての宝であり、先祖の徳であるけれども、誰もがそれを与えられているとは限らない。
 しかし、その技の精進に至誠を込めて、倦むことなければ彼等は、その霊能を開発して呉れるのである。画家や文筆を技とする人達が興に乗って来た時、思っても見ない上手い文句や文章が、筆に乗って先に走るという体験を持っているであろう。
 或いは又、心境が澄み切って頭が空の状態になった時、或いは又、その空と云うことすら忘れてしまった時、自分の意思に反してより巧妙に筆が動く、あたかも生あるものの様に筆が動いて、思いがけない傑作が出来たということを体験しているであろう。
 これ即ち、その人間の技を指導する背後の奇鬼神の操る術に他ならないと、一つの心霊現象、自動書記とも言うべきものになっているのである。
 この様に、各々の道に志す技を練り上げて、空の高さと深さを把握することを会得するなら、彼等は霊感を開発して呉れるのみならず、与えられた術は身について行くことであろう。即ち求めようとする人間の努力と、与えんとする彼等の意思とがここに結合して、自らの術を生み出して呉れるのである、
 宜しく術と云うものが、どんなに人生にとって大切なものであり、かつ又、必要重大なものであるかを覚って、その力を求めなければならない。
 そこで今度、大霊から皆に授けられた術の事であるが、汝等各人の術の完成こそ、汝等の完成になると云われるならば、それ即ち、与えられた術そのものの徳である。
 何故ならば、賜った術こそ即ち我であり、我は即術と一体であるからである。我の存在無くして、その術の存在は有り得ない。その術の存在無くして、汝の存在は有り得ないとも云えるのである。何故ならば、神から与えられた汝の術こそ、今の世において他に与えられる者はいないのである。
 汝等の主護霊が誇らかに汝に告げるが如く、汝はその術の開祖であることを自覚せよと。何故ならば、その術こそ汝にとって、「命」そのものだからである。神から命じられ、授けられたる命とは、そういうものなのである。故に自らに与えられた天の命を、何人と雖も侵犯することは出来ないのである。
 況や、汝等の命運の開運の門は又その術の門と同じと、垂示されるに於いておやである。其れ洵に宏大な恩慈であり、大いなる術の徳と言えよう。然しながら、その術を握り使う汝等の人間の心の器が小さければ、術は泣くことであろうと信ずる。心すべきことである。
 では、術はどの様にして修行して行ったら良いであろうか。それは常に、法に則って道に帰れば良いのである。
 そうすれば、格の大きいものにすることが出来るし、又その格にふさわしい人間の格、心の器もより以上立派なるものにして行くことが出来るのである。
 そうあってこそ、その与えられた天よりの命に、本当にふさわしい術にもなるし、又その術を司る人として、その術の格にふさわしい、立派な人格を完成することも出来るのである。
 この3つの格が共々に向上して、各々等しく揃うならば、此処において、その命は燦然とした光を放つのである。
 では、霊術の格は何を以て定められるか。それはその人間の霊体の格と、祖先の徳によって大小が定められ、命の格は現体の格の大小と、先祖の徳によって定められ、人間の格は即ち現体に受け持たされた格であり、厳密に云うならば、現体の神、幽、霊、現と先祖の徳に定められる。
 ただ、術のみ求める事に急であって、心の器の修正を怠るならば、術を司る奇鬼神や動物霊に翻弄されて、彼等の癖に溺れるか、或るいは自己の因縁の癖を彼らに弄ばされることは前講で説いた通りである。
 然しながら、ややもすると天才的な霊能者、霊媒者と云われる人達の中で、特にその術に優れた者には、兎角、辟易するような癖が強いか、或いは人間の心の器の小さい人達が多いのである。
 世人はとかく彼等の人格の低俗を唾棄し、その癖に幻惑してその術の高低、あるいは霊媒としての力の真価を見失い、その現象を正しく審神者することも、研究することもなくして、インチキと極めつけ、霊言も共に信ずべからざるものと馬鹿にするか、或るいわ眉つばものとしてしまいがちである。
 そして人格の低俗な連中は、狭量な心の器の小さい人間に、どうして高い神霊が憑り得ようか、どうして立派な霊言が出るであろうか、人間がまず立派で有り、その行いが高潔であってこそ、高い神霊が憑かられるのが本当である。またそうあってこそ、霊言も立派なものと言えるのであると、神霊の道を行く人でさえその様に評するのである。 
 そうかと思うと、一つの術の現象にたわいなく魅せられてしまい、愚にもつかない霊言を、無二の聖典のように崇め奉っている無知の人達も多いのである。
 前者においてはまず、その霊能者の容姿や風格、又は性格、或いは口まえということだけを通して、霊能、霊術の価値を決めつけてかかる者が多いし、後者にあってもやはり容姿、風格を通して、その話術に引っ掛かり、一つの霊術が途方もない大きなものの様に思い込まれ、霊言の真偽を見破るどころか。後光がさすように見えてしまうのである。
 前者も後者も、現幽の真理に蒙昧であり、審神者(憑依現象、所謂心霊現象の真偽、高低を審判する者)の力の欠如は勿論、皆目、術というものも、術の格というものも判らないことに原因するものである。
 以上述べたように、霊能者の術や、その術によって出る霊言というものを正しく評価するには、まず自分の偏見を拭い、あくまで冷静に心眼を正すことが必要である。自我の色を以て見るときは、術と人格をごっちゃにして術そのものを評し易いものである。
 人の格と術そのものの格とは、もとより別個のものである。人間としての行為が立派であって、高い霊格を伴い、それにふさわしい心の器を備えて術の力が大きければ、それはもう単なる霊能者、世俗で云う所の所謂「霊媒」なる者では無い。それこそ本当の「聖者」と云うべきである。
 しかし、世の中のどんな霊能者と雖も、それはいずれも神からの命が有ってやらされているには違いないが、一単なる一人の霊媒者として終わるか、或は人間から見ての聖者ではなく、神から見ての本当の聖人に迄向上するかは、其の人間の自由を神は与えられているのである。
 けれども自我の色や偏見を入れて、その霊能者そのものを断ずる人は、恐らくは仙人の存在を信ずるにせよ、信じないにせよ、万一、そういうものがいるとするならば、多分それは支那の物語や、小説に出てくるような白髭を胸まで靡かせ、自然木の杖でも持った、老翁であろうことを想像する人達でもあろう。
 そして伝説の中で神格化されたイエスのみが。本当のキリストであって、血の通った人間臭を持ったイエスであっては困る人達であり、泣き虫であり涙もろく、愚痴もあるイエスであってこそ、だからイエスは尊いのである。
 いざりを立たせ、盲を開ける素晴らしい術者であり、自らの泣き虫を世の人の涙に変えて泣き、自らの悩みを世の人の為への悩みに代えしめ、自らの愚痴を世の人の為への愚痴に変えて行かれた、だからイエスは本当の聖者なのである。
 ここで、霊術の世界から、目を技術、芸術の分野に転じて見るならば、霊能、霊術と同じ様に、天才的な芸術家ゃ秀でた技術者には、必ずしもその技という術の格にふさわしい人の格、即ち人格を持った人達ばかりではない。人間は厭な奴だと云われるが、その画技の術は素晴らしい例もある。人格は低俗、低級と言われても、その技術は名人芸の人もいるのである。一個の素晴らしい作品の価値は、人間の濁癖さえその完成された術の光に覆われてしまうことを知り、宜しく術がどんなに偉大なものであるか、心眼に認識して欲しいのである。
                              
続く