小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
平成28年5月吉日
スピリチュアル エピソード 第22話
「とと姉ちゃん」のパーティで見かけた大物女優のオーラの話
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NHKテレビの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」、暮らしの手帳社を創業した大橋鎭子女史の自叙伝をドラマ化したこの番組は、主演高畑充希の好演もあり、好調な視聴率を稼いでいます。
私は大橋さんが平成6年に東京都文化賞を受賞したことを記念して、毎年5月に早稲田のリーガルロイヤルホテル東京で開かれている「バラの会」で、大橋さんに何回もお目に掛ったことがあります。
この「バラの会」に出席するようになったのは、私がお姉ちゃんに誘われたからです。第19話でお話ししたように私は男三兄弟、そして水子の兄と妹を入れると5人兄弟となりますが、もう一人肉親ではないのですが、生涯お姉ちゃんと云っていた人がいたのです。
年子3人の世話と家業に追われる母のために、父が次兄の道雄の面倒を近くに住んでいた一人娘を抱えた未亡人、おばちゃんが訛ってバッバと呼んでいましたが、お姉ちゃんの母親に頼んだのです。
私が「知られざる物理霊媒竹内満朋」(2003年度学研「ムーミステリーコンテスト」入賞作品)に載せた、昭和10年代の小泉家の家族写真の、中央奥のセーラー服がそのお姉ちゃんです。因みに、私は母に抱かれ、道雄兄はバッバの膝に腰かけております。
大正11年生まれのお姉ちゃんは、私たち兄弟と歳は離れていましたが、気立てが良くて勉強好き、父は実の娘の様に可愛がって面倒を見て、深川にあった第一東京市立高等女学校・現在の都立深川高校に進学させ、そして卒業して日本興業銀行に就職しました。
興銀では調査部に配属され、後年、東京都民銀行を創設した工藤昭四朗部長の許で鍛えられました。そこに、大正9年生まれで府立第6高女・現在の三田高校を卒業した大橋鎭子さんがいたのです。
そして、この二人の先輩に、池さんと呼ばれた池田君子さんと云うキャリアウーマンがいて、お姉ちゃんと大橋さんを妹の様に可愛がってくれたのでした
大橋さんは昭和15年に興銀を退社し、昭和21年暮らしの手帳社を創立しました。すると、池さんは大橋さんに乞われて暮らしの手帳社に転職し、70才を過ぎるまで営業部門で活躍して大橋さんの片腕を務めました。
一方、お姉ちゃんは、戦時中、興銀のコーラスを指導しに来ていた南雲巌さんと結ばれ、南雲さんの実家のあるスキーで有名な新潟県の湯沢に、ばっばを連れて嫁いで行きました。
それでもバッバは、時折、湯沢の天然のなめこやアケビの芽などの山菜をどっさり持って、世田谷に尋ねてきてくれました。幸雄兄はスキーに凝って冬になると湯沢に通っていました。お姉ちゃんは、父が胃がんで広尾病院に入院すると、毎日毎日見舞いのハガキを病院に呉れ、看護師さんからてっきり実の娘かと思われたほどでした。その様に親戚以上の付き合いが続いたのです。
平成の10年代、ご主人に先立たれたお姉ちゃんは、池さんに誘われてバラの会に出るようになり、私も夫婦そろって何年間か参加しました。
広いホールに8人掛けの丸テーブルが置かれ、何時もおおよそ二百人ほどの出席者がありました。
その大半は女性で、最近亡くなった秋山ちえ子さんを始め、各界の著名な方々が集まっていました。大橋さんの挨拶に始まり、食事をしながら著名人のスピーチや歌などを聞く3時間ほどの楽しい集いでした。
我々のテーブルはお姉ちゃんと池さんと私たち夫婦でしたが、大橋さんはぐるぐるテーブルを回って挨拶され、お姉ちゃんとは特に懇篤な会話を常としていました。
年は忘れてしまいましたが、そんなある年の会場で、私は遥か向うの席にいる、オレンジ色の淡い光りで全身がボアーと輝いている女性を見たのです。
私はハンカチで目をこすりましたが幻ではありません。そんなことは初めてです。一体誰だろう。私はさりげなく席を立って、そのテーブルに近寄りました。そこに座っていたのは、テレビで見かけたことのある舞台女優の水谷八重子さんだったのです。は−、私は思わずため息を漏らしました。
隣に座っている女性と談笑しているので、声をかける勇気もなくその場を離れましたが、席に戻って再び見ると、やはりその光は変わりませんでした。
オーラと云う現象のことは知っていましたが、私がオーラを見たのはこれ一回きりでした。
何故オーラが見えたのか、父か竹内満朋さんが存命だったら教えて貰えたのにと残念に思ったことが、今でも懐かしく思い出されます。
完
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