小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第30話2017年3月


 平成29年3月吉日


スピリチュアル エピソード 第30話


「お前は一人ではないんだよ!」

誕生日の夜、示された主護霊の励ましに社長交代を決断



 それは丁度5年前の誕生日の前の日の事でした。当時、私は会社経営のこれからに一人深刻に思い悩んでおりました。69歳で社長を長年の知己だったMさんに譲り、会長に退いて5年の年月が流れました。
 Mさんは大学卒業後大手リサーチ機関に勤務し、それからコンサル機関に、そして大手教育機関に転職して長年勤務し、そして8年ほど前に独立して単身でマーケティング機関を自営しておりました。
 私が知り合ったのは、Mさんがコンサル機関に在職していた十数年前の事でした。6年ほど前に仕事での接点が復活し、後継者探しをしていた私は彼のシャープなパーソナリティーに後事を託しました。
 Mさんは社長就任後、永年勤務していた教育機関の関係会社から、教育マーケットのリサーチを開発するなど頑張って呉れ数年間は経営が順調でした。しかし、やがて自分が得意とする分野の仕事に没頭して全体のマネージメントに目を向けることが怠りがちとなり、受注が落ち込むと共に、幹部社員との間に不協和音が発生して信頼を失いました。
 Mさんは、かつての上司だった大手リサーチ機関の元役員を招聘して、マネージメントの強化を図りましたが、遺憾ながらその方が、大手企業で培われた経営発想は当社には全く不適でした。
 焦ったMさんは打開策が無いままに、経営を若手社員の発想に委ね、それでうまく行かなければ社長職を投げ出すと言い出して、私との信頼関係が崩れました。中小企業の社長は、そんな生易しいものではありません。まだ財務上余裕のある間にと 幾つかの対策を一人で模索しながら、実行に至るエネルギーが枯渇して、昼夜、孤独感に苛まれる日々でした。その様なことで、自分の誕生日も忘れていました。
 その日、思い悩みながら床に就くと、暫くして目の前に光が煌めきました。お顔までははっきり見えませんでしたが、其れが主護霊平沢春義霊神であると直感したのです。
 気が付くと私は、主護霊の左腕に抱きかかえられていました。そして主護霊が宗雄、どこに行きたい”そう尋ねたのです。
 “空を飛びたい”思わず私がそう云うと“よーし”主護霊は私を抱いたままに夜空に舞い上がりました。星々が煌めく天空は実に爽快な気分でした。“次はどこだ”水中に潜りたい“”よーし”そう言われて水中に潜ると水が左右に割れるのです。“次はどこだ”私はつい調子に乗って竹内満朋師の幽界旅行記を思い出して“竜宮城に行きたい”そう云ってしまいました。“それは無理だ”主護霊がそう言われました。
 はっと気が付くと、私は一人暗闇の寝床にいました。ところが、その部屋に沢山の人の気配がするのです。“祖霊や背後霊の方々だ”私はそう直感しました。
“お前は一人ではないのだよ、沢山の諸神、諸霊の方々が、お前を見守り守護しているんだよ”主護霊の声なき声が聞こえてきました。すると、目の前に、スカートを穿いたおかっぱ頭のみほこが出てきて、私の前に白いチューリップの花“これ上げる”と云って差し出したのです。
 “あー、有難う”そう言うと、続いて一雄が現れて赤い野ばらを一枝差し出して“僕も上げる”と云いました。すると今度は、40年ほど前に亡くなったおばあちゃんのまささんが出てきて、赤い紅葉の枝を差出し“私も上げる”そう云ったのです。まささんが私の前に現れたのは、亡くなってから初めての事でした−。
そこでパッと目が覚めたのです。
 後日、ネットで調べたところ、みほこの白いチューリップの花言葉は「新しい愛」でした。きっと私に新しい愛を見つけるようにと決断を促したのでしょう。一雄の赤い野ばらの花言葉は才能、“きっとお前なら大丈夫だよ“そう云っているのでしょう。最後の赤い紅葉は“大切な思い出”でした。
 翌日、模索した中での最良の案の実現を決断したのでした。それは「かってのクライアント・地域電通の元マーケティング部長・斉藤保明さんを社長に−」との構想でした。斉藤さんとは幾つものリサーチプロジェクトを一緒に取り組み、そのキャリアと人柄に惚れ込んで“この人に任せられたら”と思う人材でした。
 翌日、永年親しくして頂き、独立後も色々とお世話になっている電通OBの西川健一さんが、斉藤さんと親しくしているのを思い出して、西川さんにこの計画の推進を願いしました。
 西川さんは快諾して頂き、この実現に力を尽くして下さいました。ところが斉藤さんは突然の話に戸惑うと共に、早くしてご主人を失い、女手一人で町工場の経営に苦労された母上のご心配もあって躊躇され、中々良い返事が得られませんでした。
 そして、再三に亘る私の要請に対して、西川さんを通じて“私は小泉さんにとってどの様な存在なのですか”との問い合わせがありました。
 私は即座に“戦友です”と申し上げ、その様に伝えるようにお願いしました。斉藤さんと全力で取り組んだプロジェクトを通じてその様に実感し、私の“大切な思い出”になっていたのです。
 そして、その年の10月末の株主総会で、無事社長交代が実現されたのでした。