「夭折した次兄道雄が、三度私の元に−」 |
---|
私は昭和11年に年子3兄弟の末子として生まれました。
長男は幸雄、二男は道雄そして私は宗雄。幸雄の名については、父の日記によると“長男が生まれたので、早速、小林霊媒の所に行って、和彦さんと相談して名付けた”とありました。
小林霊媒とは、浅野和三郎に見出された巫女型霊媒・小林寿子のことで、盛岡に住む平凡な家庭の主婦でありましたが、ある日突然、夭折した息子和彦の霊が出現して支配霊になったのを機会に、巫女型霊媒の能力が開花しました。土井晩翠を始め、多くの著名人をファンに持つたことで知られており、父は心霊の道に初学の頃は、よろず、和彦霊を頼りにしていたようであります。
その幸雄兄は強い意志の持ち主で、行においては毎月、一日・月末・十五日は当然のことながら、残りの多くの日々にも禊の行法を行っておりました。実業においては、得意の英語力を生かしてシンガーミシンに活動の場を得、父の現世での使命の業・事業を継承し、世に幸を齎すための名前と、誰もが疑うことはありませんでした。
ところが、40歳の折に突如として、超悪性の胃癌に冒されてこの世を去りました。父にとって、私にとっても信じられない衝撃でありました。
葬儀が終わり、シンガーミシンに挨拶に行った帰りの喫茶店で、父が私に“お前が生まれた時仏壇で拝んでいたら「宗雄だ、宗雄だ、ハハハ―」と言う笑い声がしたのでその名にした。末子のお前に長男にふさわしい名を付けたのは、お前が跡継ぎになることを、先祖のだれかが知っていたのだ−”と述懐しておりました。
私も中学生の頃、何気なく手にした漢和辞典で「宗」の意味を知り、何で末子の私の名が−と驚いたことがありました。その時の思いが、「宗教とは何か・大本の教えとは−」の研究のルーツとなっております。
次兄道雄の名の由縁は聞き漏らしましたが、生まれつき病弱で、戦時中、私と幸雄兄が学童疎開で親元を離れた時も、神霊から“道雄は手元に置いておけ”と言われて両親のもとに留まりました。
健康には恵まれませんでしたが、色白で背が高く、温和な性格で勉強好きでした。中学の時のあだ名は鶴さん、長じて父の門下の女性達から“加藤剛に似ている”と言われ、中々のハンサムボーイでありました。
高校2年の時に、当時は不治の病とされていた結核を患い、休学を、そしてやがて退学を余儀なくされました。戦後の混沌とした時代、父は銀座にあった家業の小泉商会を手放して没落したため治療費に事欠き、長年自宅で療養して漸く久我山病院への入院が叶ったのは、27歳でこの世を去る6年程前でありました。
それでも、勉学の志は高く、大学入試検定試験に合格すると共に、神霊に関する資料の整理・解説を行い、その才能と人柄は、父の畏友である神道研究家・日本心霊科学協会の常務理事を歴任した麦林楢次郎を始め、多くの人達に慈しまれました。
その様なことから、誰もが、父の使命の内の道・大道の後を受継ぐのは、当然道雄兄であると思っており、その夭折は大変な衝撃でありました。
なお、ここで結ばれた麦林楢次郎との交流は死後も継続し、楢次郎が他界後、旬日を得ずして父の元に出現した際“今日は道雄さんの案内で、貴方に会うことが出来ました”と語っております。
なお、その所以は、出版を進めている著書の中の「死後、人間の霊が現界に出現するには−」に記述してあります。
私は二十歳で綜合統計研究所・後年の綜研に定職を得、以降、病がちの両親に代わって道雄兄への見舞を心掛けました。
「冬草は 残されしまま 蒼き車往く」 遺品の中に、病院の句会での道雄兄の色紙がありましたが、この蒼き車は、第二話 その1 「お袋に小遣いをやれ―」で炎上した、三菱360のことであります。
その道雄兄が、他界後、三度私の元に出現したのです−。
終