小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第11話(その2)2015年1月


 平成27年1月吉日


 新年のご挨拶


 新年おめでとうございます。良い年をお迎えのことと思います。今年もスピリチュアル エピソードを宜しくお願い申し上げます。ご意見ご要望があれば、気軽にお寄せください。


大変お待たせいたしましたが、漸く、最後の物理霊媒・竹内満朋の物理降霊会でローム太霊が講話された「死後の世界・神霊界の実相に関する研究」を「今日の話題社」から上梓することが出来ました。


表紙には、ヒマラヤをバックに、父小泉平一と竹内満朋の写真をデザインし、帯には畏友つのだじろう君と、私の最年長のガールフレンド・江戸しぐさの越川禮子さんの推薦を頂きました。


出版社の事情で12月30日の朝日新聞に広告を掲出しましたが、店頭陳列は1月15日ごろからになります。この出版は営利目的ではありませんが、是非沢山の方に読んで頂くことを念願し、読売新聞と東京新聞&中日新聞に広告を掲出するなど、色々なマーケティング活動を行う予定です。

何処の書店からもお取り寄せできますが、三光太源文化研究所に直接申し込んでいただくと、消費税オフで頒布致します。是非ご高覧ください−。



スピリチュアル エピソード 第11話 (その2)


私の目の前で起こった父・平一に関わる超常現象



その2 世田谷区赤堤に墜落したB29撃墜の謎



 それは、第二次世界大戦終戦の3か月前、昭和20年5月24日の夜のことでした。
小学3年生になった私は、新学期から二人の兄達が通う世田谷の松沢小学校に転校しました。両親も赤堤に移り、父は毎日京橋の店に通勤していました。
当時の赤堤は郊外の田園都市で、京王線の下高井戸駅から5分も歩くと畑が点在し、私の家の前も畑で、その脇を二メートルほどの川幅の小川が流れ、ざりがにやタナゴ、泥鰌などが生息していました。
家は百坪の敷地に大正時代に建てられた30坪程の和風建築で、広い庭がありました。 玄関を出て敷石伝いに右に行くと表門、左手に行くと裏木戸があり、生垣にはお茶の木が植えられていました。今考えると随分大きな家でしたが、この辺りでは言わば標準的なものでした。


昭和19年6月16は日から始まった米軍B29の本土空爆は、日に日に激しくなり、 時折、夜間に来襲したB29からビラが投下され、ご飯が山盛りに盛られお茶碗のイラストと“朕はたらふく食ってるぞ、汝臣民飢えて死ね”そんな言葉が書かれていました。朝、校庭で拾って見ていると、先生方が慌てて回収していたことが思い出されます。
 そして、3月10日には浅草、本所、深川等の下町が東京大空襲に遭い、後日の記録では、10万人の死者と100万人の罹災者が出たとのことでした。
空襲はもっぱら晴天の夜半、10時過ぎが多かったように記憶しています。
まず“ウ〜”と云う警戒警報のサイレンが鳴ります。家の内外の電気を手分けして消灯し、雨戸を閉め、カーテンを下して一切の明りが外に漏れないようにして、家族全員茶の間に集まりラジオを囲みます。茶の間の電球だけは消さずに、その代り傘から黒い布ですっぽりと覆います。
「東部軍司令部発表 敵B29の編隊は銚子沖から----」ラジオが敵機来襲のアナウンスを叫ぶと、それに連れて空襲のサイレンが鳴り響きます。今度は警戒警報のサイレンに加えて、短いサイレンが数回鳴るのです。
外に出て辺りを見渡すと、灯火管制で真っ暗闇、人通りが絶えて物音一つなく静まり返っています。星々が煌めく夜空を見上げると、来襲したB29の編隊から焼夷弾がおとされ、地上からは何本ものサーチライトが敵機を追い、高射砲が発射されます。しかし、中々に命中しませんでした。


何時の頃からか忘れましたが、空襲の夜になると、普段着の和服姿の父は表門の手前に直立し、右手の人差し指と中指を立て、親指と小指、薬指を握って剣を創り、B29を凝視して何か呪文を唱え、「エイ!」と云う気合と共に切りつけるのでした。“国防の手助けをせよ”隼人霊神からそのように指示されたとのことであります。
そして昭和20年5月24日の夜のことでした。
やった!父が小声で叫ぶと、なんとB29が一機、キラッと光りました。高射砲の銃弾が当たったのです。そして、炎上して光り輝くその機体が、正しく私たちの頭上めがけて落下して来るではありませんか。
すると父は、もう一度、その機体めがけて「エ〜イ!」と云う掛け声をかけて切り付け、更に今一度「エ〜イ!」と剣先で機体を右方面に誘導したのでした−。


このB29撃墜の顛末は軍秘とされて、その結果は一切知らされませんでした。それから六十余年たった今、残されている記録を見ると、B29は我家から数百メートル離れた畑に落下し、搭乗員2名が生存して逮捕されたとのことであります。
このことに関して、果たして父の霊力が機能したのかどうか、確信はありません。しかし、私の脳裏には、今でもその時の有様が、父の姿が鮮明に浮かんでくるのです。


                                   以上