「武田信玄の軍師・山本勘助の霊言」
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今、NHKの日曜大河ドラマで「軍師・官兵衛」が放映されております。そして、去る7月20日の「天下の秘策」は、19.4%と2割に近い視聴率を得て、改めて“軍師”というスペシャリストの存在が注目を集めております。
わが国の中世、足利幕府の衰退に伴い、荘園制度などの古い権威が否定されて各地に戦国大名が誕生し、それぞれが勢力の拡大に競い合いました。そして、有力な大名の元には優れた軍師がいて、後世にまで名を残しております。
黒田官兵衛は若くして豊臣秀吉に仕え、織田軍団の師団長格の中で、最も成り上がり者であった秀吉を天下人にまで押し上げ、史上最強の軍師と称えられております。
官兵衛に次ぐ軍師の名をネットで検索すると、同じく秀吉の出世を支えた竹中半兵衛、上杉景勝の直江兼続、伊達正宗の片倉小十郎、そして武田信玄の山本勘助の名が挙げられております。
この中で、竹中半兵衛、直江兼続、片倉小十郎は、その存在と実績が、後世に残された様々な資料で明らかにされておりますが、山本勘助は、実在していたのかどうか長い間疑問視されておりました。
それは、勘助の活躍が記された資料が、江戸時代に甲州軍学の聖典として持て囃された「甲州軍鑑」に限られ、これ自体が歴史書ではなく創作ではないかと疑問視されたことによります。
しかし昭和44年に発見された「市河文書」の中に山本官助という名があり、これが山本勘助と推察されることから、実在説が有力となっております。
その「甲州軍鑑」によると、山本勘助は諸国放浪の末武田信玄に巡り合い、51才で隻眼、しかも足が不自由の身でありながら、その才を認められて召し抱えられ、その後数々の武功を重ねて軍師となり、武田流兵法を創始しました。
然るに、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで、献策した啄木鳥戦法が上杉謙信に見破られて大敗を喫し、責任を感じて手兵200余を率いて敵陣に切り込んで、身に八十四か所の傷を負って戦没したと伝えられております。