小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和元年10月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第二十六話
第二十六話 平一の妻さきの生涯
平一の妻小野塚さきは明治44年3月25日細工師小野塚平吉、たまの次女として浅草区鳥越で生まれた。
平吉は幕臣小野塚伊織の長男として生を受けた。長女のまさは幾たびかの結婚・離別の末、小泉益太郎の後妻に嫁いで平一の義母となった。次女は棋士廣瀬平次郎と結婚し、長女のとみは後年ソニーの初代会長となった万代順四朗夫人となっている。
平吉は明治維新により小野塚家が幕臣の報碌を失ったため、士農工商の序列により、江戸名残の細工師の許に丁稚奉公に行った。
もっぱら、象牙・鹿の角、竹などで喫煙具や印籠などを作る技を磨いて長じて親方となった。生涯無名の一職人として終わったが、昭和天皇ご生誕の折、象牙製のおしゃぶりの公募に入選したことを生涯のひそかな誇りとして、93歳の長寿を果たした。たまについては伝えられていない。
長男の昌吉と二男の安吉は共に平吉の跡を追って細工師の道を継いだ。長女の鳥井ひさは九州の鳥井の許に嫁いだが縁が続かず、子供達を連れて東京に戻り、生涯丸ビルにある大手化学メーカーに電話交換手として勤務して子供達を育てた。三女の水野琴は、小泉商会の番頭をしていた平一の従兄弟の水野紀一の許に嫁いだ。
四女の千代子は牛込の呉服屋に嫁いだが、大東亜戦争の空襲で家を焼かれ、子供を連れて逃げ惑う中で子供を抱き抱えながら焼死した。戦後、平一が霊眼でその有様を見てその旨をさきに伝え、さきが思わず涙していたことが私の幼い記憶に残っている。
さきは、高等小学校を卒業すると、千葉の稲毛にある割烹旅館海気館の女中頭をしていた、竹村の叔母を頼って行儀見習いに行き、やがて東京に戻って、ひさと同じ電話交換手をしていたようである。因みに、その時の同僚恵以は兄昌吉の妻となっている。
叔母の小野塚まさが小泉益太郎の後妻になった縁で、平一の許に嫁いできた。「叔母さんが後妻になって苦労しているようなので、お嫁に来て上げたの」晩年,平一の没後にさきが脳梗塞で入院していたある日、ふとそんな言葉が口からこぼれたことがあった。
戦前は3人の子育てと、住み込み店員達の面倒などで多忙の日々を送り、私の幼い記憶だと、病気で寝付いたのは、蟹を食べて針生のバッバと二人が当たってしまい、何日か2階で枕を並べて寝付いたその時だけである。
然るに、戦後、世田谷で暮らすようになると喘息に苦しむようになり、昼夜せき込んで止まらず、特に全身を震わせて苦しむ夜が続いた。
平一の日記によると、神業の放棄を迫って押し寄せる、魔性達の呪詛に併せて発作が激しくなり、平一の懸命の祈りと、それに感応した主護霊や乗天坊霊神等の背後の諸霊神の加護でこれらを撃退すると、何とか発作も収まるとのことであった。
平一はさきのこの苦しみを「白羊の秘」と呼んだ。神業に対して捧げられた尊い生贄との意である。
ある日の降霊会でローム太霊から「さき、ローム頼みがある。聞いてくれるか。今回の役日(年に数回、運勢が好転する日)の行では、済まぬが神業のために白衣を着て西霊に身を捧げて呉れないか」そう云われたとがあった。周囲は皆さきの身に万一のことがあったらと心配したが、幸い何も起こらずに済んでほっとしたことがあった。
さきの心の中での最大の苦しみは、平一とKさんの間に水子のみほこが出来たことで、私が名古屋に赴任していた間の出来事のようである。
その御魂が、神業に欠かせない役割を果たすのだと平一から言われて、懸命に自分を抑えて、Kさんに対しても変わらずに妹の様に接し、第一に私にその様なことがあったことをひた隠しに隠し、三光太源の門下の方々にも愚痴をこぼすことは皆無だったようである。
唯、さすがに抑えきれずに、二人の姉妹、姉の鳥井ひさと妹水野ことには苦しい胸の内を開陳したことがあったようで、後年叔母達からそのように聞かせられた。
気立てがやさしく、到来物があると気前良く分け与えると共に、万、平一を立てて門下の皆に慕われ、平一の神業成就と、私達子供の成長を生きがいとしていた。
然るに、27歳で次男の道雄を、40歳で長男の幸雄に先立たれ、その都度涙にくれるさきの小柄な体躯が、益々縮んでゆくようであった。
そして、昭和57年2月に、常日頃、病気では絶対に死なないと言っていた平一が、胃癌と宣告され広尾病院に入院した。さきと私を始め、門下の皆は誰もが奇跡的な回復を信じていたが、開腹施術の結果は絶望的だった。唯一つ、有難いことに通常襲ってくる激痛が皆無だったようで、そのことが希望への支えとなった。
さきは広尾病院に日参してあれこれ看病に努めたが、其れが過労となり、平一が他界する3日前に夜中脳梗塞で倒れた。
私は救急車で近くの永福病院に入院させて、毎日の広尾病院への見舞いを止めて、永福病院に行った。その結果、平一の最後の3日間は、如何なる神慮かはわからないが、私は平一に会うことが叶わなくされてしまったのである。
昭和58年5月1日の明け方、電話で平一の危篤の知らせを受けて広尾病院に駆け付けた時は、もう平一の意識はなく、とうとう一言の言葉を交わすことも出来ずに最期を迎えた。
頼りになる親族の少ない私は、一人で葬儀の準備に忙殺されたが、最大の悩みは、平一の死をどの様にさきに告げたら良いか、自宅で行う葬式に、果たして連れて来ることが良いのかどうかということであった。
幸い、平一の門下の一人に小野さんと云う病院の看護婦長がいて、「とにかく、黙って家に帰ろうと言って連れてきましょう。病院からずっと私が付き添いますから」とそう云ってくれた。
タクシーで家の前まで来ると、さきは並んでいる弔花の列を見て、全てを悟ったようである。特に泣き叫ぶようなことも無く、おとなしく葬儀を終えて病院に戻って行った。
退院したさきは、独身の私の面倒を見ることに生きがいを見つけたようで、それまでにましてあれこれ気配りをしてくれたが、半年ほど経って再び脳梗塞で倒れ、今度は広尾病院に入院させた。
ところが3か月程たったある日、病院からこれ以上の回復見込みがなく、このまま入院を続けさせる訳にはいかないと退院を勧告され、途方に暮れた。
幸い友人の一色孝義さんから千葉の初富にある初富保健病院を紹介され、そこに転院した。日暮里から京成・新京成電車と乗り継いで乗車1時間半、自宅を出てからほぼ2時間程かかった。
病院は長閑な田園の中にあり、看護婦さんも皆親切だったが、都会暮らししか知らないさきにとっては、大変寂しかったようであった。土曜日には必ず見舞いに行っていたが、数日すると京橋の水野に、「宗雄が来ないから来るように言って頂戴」と云った電話があり、閉口した。
1年ほどして、平一の門下だった山田武雄さんの親族の区会議員の方のお骨折りで、世田谷の千歳船橋にある有麟病院に転院することが出来てほっとした。しかし、この病院も何時までも置いて貰えるものではない。
有難いことに、勤務していた綜研の水野社長のご厚意で、東京農大の金木先生から有麟病院に併設されている特別養護老人ホーム・有麟ホームの理事長を紹介して頂き、何とか入居することが出来て、漸く終の棲家を得ることが出来た。
しかし、安心したためなのか、さきの頭のボケが進行し、私の事は認識するものの、妻となった章子を連れて行って「宗っちゃんのお嫁さんだよ」と説明しても、最後まで寮母さんとの区別がつかず、章子に寂しい思いをさせてしまった。それでも章子の色々な気遣いには大変喜んでいて、最後の親孝行が出来た思いがした。
平成5年10月29日さきは84歳の生涯を終えた。あっけないほどの穏やかな最後だっ
た。「看病の苦労をさせてくれなくて、これではあまりに子孝行が過ぎる」そう云って章子が泣いた。有麟病院の庭には、たわわに実った蜜柑とコスモスの花が咲き乱れていた。
“蜜柑たわわ 母の往きしは浄土なる”
そしてその翌年の8月に、さきは第19話「幽界に旅立った“はらからたち”からの応援歌」でお話しした様に、一雄に手を曳かれて私の元に現れ、私の手を握り締めて「身体を大事にしてね」そう云ったのである。何時までも何時までもやさしい母であった。
完