小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第十二話)2018年6月


 平成30年6月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第十二話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第十二話「汝戦うべき日なり」一旦は免れたが
      ついに店戦災で消滅、
      私と幸雄兄は学童疎開で岩船に−、
      そして終戦。



 ここで戦前の小泉商会とその近所の風景をご紹介いたします。
 小泉商会は京橋区木挽町1-6、現在の中央区銀座1丁目6番地、銀座1丁目のテアトルセゾンの角を曲がって水谷橋を渡って直ぐの交差点を越えた、右手3軒目にありました。
 この道を真っ直ぐ行くと昭和通に出て、なお直進すると右手に私達兄弟の母校であった京橋小学校と京橋幼稚園が、左手には京橋電話局がありました。京橋小学校は平成4年築地小学校に統合されて廃校となり、現在は都営のマンションに、電話局はNTTのオフィスビルにと様変わりしております。
 小泉商会は木造3階建の店舗併用住宅で、1階には自転車とリヤカーが置かれる土間と板の間、そして商品のサンプルが入れられた棚があり、奥に6畳の茶の間と台所と勝手口が、そして風呂場とトイレ、2階への階段があり、階段の下に事務用の机と椅子、そして帳簿や金庫が置かれていました。茶の間の天井は明り採りのガラスがはめられておりました。
 2階は道路に面した8畳のお座敷と、その脇の板の間の突き当りに神棚があり、今一つ両親の寝室の8畳とトイレが、その前面は猫の額ほどの庭、と云っても、その大半は1階の茶の間のガラスの明り取りが占めておりましたが、それでも南天を始めあれこれ植木が植えられておりました。それから3階に上がると十二畳程の、住み込み店員の部屋がありました。
 そして、屋根の上に物干し台が設えられておりましたが、家々が密集しているため、屋根越しに隣家の三階に行くことも出来ました。
 家の後には倉庫があり、常時パッキンまたは木毛と呼ばれていた、木材をそうめんの様に細長く削った荷造りの際に使う緩衝材と、ダンボールや縄、梱包用紙の類がストックされておりました。
 家の右隣は室屋さんと云うタイヤ類を扱う店が、左隣は喫茶店があり、その隣の角店は幼馴染の妙子ちゃんがいるキャビンと云う洋食屋でした。前は久保さんと云うガス器具屋とセメントなどを扱っている土屋さんの家が掘割に面して建っておりました。
 最近になって知ったことですが、現在首都高速道路になっているこの掘割には汐留川と言う名があったとのこと、当時は荷を運ぶポンポン蒸気船と呼ばれた小型の船が往来しており、潮が満ちて来ると魚が上がってきました。戦後、店員だった山本さんや岡崎さんが復員して店に戻りましたが仕事が無いので、時折水谷橋から掘割におりて釣りをして、丸太と呼ばれるボラの子供を釣って昼食のお菜にしていましたー。
 降霊会で隼人霊神から疎開するように勧められ、あれこれ探したようですが適当な所が見つからず、その結果、世田谷の赤堤に住んでいた菊池豊さんが、近隣に家を建てて引っ越すので借家が空くとのことで、その家を借りることとしました。
 まず祖母と兄二人が、正確な日時の記録は残されておりませんが確か昭和19年に移転し、私一人だけ両親の元に残されました。それは私が級長をしていたので勿体ないと言う親馬鹿の理由でしたが、隼人霊神から宗雄も早く世田谷にとの霊言で20年に世田谷に合流し、両親が店に残って時々世田谷に帰って来ると言った日々を送りました
 そして昭和20年2月7日の事でした。以下は平一の心霊日記の記録をご紹介いたします。
 「本日正午の食事中に突然として空襲の霊感を得る。警報発令と同時にさき及び針生春代に言う。
 『今日こそ我ら戦うべき日なりと』言い終わりて直ぐ神前に祈りしに,霊字眼前に現る。『平一汝戦うべき日なり』と白玉一個を賜る。即ちこれを呑む。神剣一振りを賜る.神鏡を懐中し用意を調う。
 第一弾7機来たる。第2弾5機来る。と見る間に投爆激しくために天日暗し。一弾ついに水谷橋の全面入船堂の前に落下す。猛烈なる爆風を愛く。されど我のみ伏せず。勇猛心丹田よりもり上がり来る。我神剣にて切る。
 第二弾は昭和通に落下、第三弾萬安に落下せり。されど人には被害なし。第五弾は福島氏宅に沢庵石台の物二個落下し、前後の家はガラス破れ屋根痛む。されど我が屋のみ何の被害も無かりきー。」水谷橋の上に仁王立ちに直立して、この様に戦ったのでした。
 そのお蔭で、第一回の危機は免れましたが5月26日、再度の空襲があり、今度は平一も母も世田谷に居たためか店は戦火で消滅してしまいました。お陰様で留守を預かっていた針生春代、南雲悦子の親子には怪我一つありませんでしたが、何一つ残さず燃えてしまったとのことでしたー。
 一方、隼人霊神から、「子供たちは再度疎開させよ」との霊言がありました。通っていた松沢小学校が学童疎開することになったので、昭和20年5月に病弱だった道雄兄を一人残して、幸雄兄と私は新潟県岩船町の高砂屋旅館に、守屋、菅両先生に引率されて疎開しました。6年生から2年生までの総勢三十余名でした。
 随分長い期間居たように思っておりましたが、後で気が付くとほんの数か月簡、終戦の詔勅のラジオは高砂屋の庭先に据えられたラジオで聞きました。それが何のことかわからず、上級生は「陛下が皆に頑張るよう言われたのだ」等と云っておりましたが、夕飯の時、守屋先生が涙を流しながら「日本は負けてしまったんだ」そう言われて「あー、戦争が終わったんだ。家に帰れるのだ−」思わずほっとしたことが今でも思い出されます。