小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和四年8月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第四十一話
第四十一話
神業から去って行った平一の朋友について
その1 菊池豊の54年の生涯
四十話その3でお話しした様に、奇人・田原正吾は空しくも平一の元を去って行ってしまいましたが、それ以前にも、長年、平一と信仰と神業達成の志を共にしながら、やはり道半ばで去って行った何人もの親友達がおりました。
その一番目は菊池豊でありました。豊とどのような経緯で親交を結び始めたのかは不詳ですが、祖母が竹内満朋と姉妹との事で、恐らくはその縁かと思われます。
南朝の忠臣菊池武時の子孫との事で、祖父は三井の大番頭三野村利左エ門の縁者だったとのことであります。
「若い頃は、自転車にハチミツを積んで、銀座で売り歩いていたよ」平一からそんな話を聞いたことがありますが、顎ひげを蓄え、豊かな学識と豪放磊落の性格の方でした。
戦時中、銀座から疎開先を探していた時、豊が家を建てるので下高井戸の借家が空くとの話を聞いて、私達は今の家に云わば疎開して現在に至っております。
豊の奥さんは大変商才にたけた気丈夫の方だったようで、確か自由が丘辺りで洋品店を経営していたように聞いた記憶があります。
そして、豊には好きなことをしなさいと言いながら、かなりきつい事を云われるようで、しばしば平一に奥さんの愚痴をこぼしに来ておりました。
私たち兄弟は菊池の叔父さんと言って、大変なついておりました。そして、子供の頃の私達にとっての何よりの楽しみは、正月に菊池の叔父さんと竹内満朋が年賀に来た時、必ず3人で分けなさいと言って、千円札のお年玉をくれることでした。
平一は私達に決まった小遣いをくれませんでしたので、その六百何十円かが、一年を通じての言わば定期収入でありました。
何年間か、紫風苑で豊が拝受する霊言を拝聴しました。豊の主護霊は菊池姓の方で、又時折、背後のバンドンという高貴な神霊が、大きな声で豊を諭しておられました。
長年にわたり子供の通っている松沢小学校のPTAの役員を務めて地元に顔が広く、その縁で新聞販売店を経営している川尻和人を始め、何人かが三鷹の竹内満朋の紫風苑に参列しておりましたが、後年、豊はそれらの人々を対象として、自宅で一竜会という名の竹内満朋の物理降霊会を開きました。すると、どの様な経緯があったのかは分かりませんが、私の兄の幸雄は三鷹の紫風苑から一竜会に所属を変えたのでした。
豊はかなりの高等教育を受けたようですが、平一や竹内満朋には一目も二目も置いてはおりながら、ざっくばらんの話し方をしており、私には平一が長男、満朋が次男、豊が末っ子の兄弟の様に思われたものでした。
何時の頃からは知りませんが、言霊学という言語に宿る言霊の研究を始め、自光という機関紙を発行して平一を始めとする神霊の同志や友人、知己に送っておりました。
その一部を、山田武雄が資料として残してくれているのですが、手刷りの印刷物だったために用紙と印刷が劣化して、全く判読すること出来なくなっております。
亡くなる前に、古代イスラエルと我が国の関わりを研究して上梓し、三笠宮が巻頭に推薦文を載せておられましたが、その書籍も私の書庫に埋もれて、見当たらずにおります。。
豊は、昭和32年の豊野油田の試掘に当たっては、北原猪義と共にその費用の大半額を負担して努めましたが、第三十八話でお話しした様に失敗に終わり、神業への不信感が生じた様であります。
そして、紫風苑での主護霊の霊言により、平一に神業の第一線から退く旨申し出たのであります。
平一は豊に、主護霊の霊言の解釈違いであるとして、再三にわたり再考を促したようですが、凍り付いた心は溶ける事無く、その決意は変わりませんでした。
そして、以降一切神業に関わることが無く、そのために、昭和34年の太源石油創立に際しても、役員としてではなく、株式の分配を受けることに留まったのであります。
そして、ひたすら言霊学の研究に専念したようで、昭和41年の石油資源開発株式会社による豊野油田開坑を見る事無く、昭和38年12月6日54歳でその生涯を終えました。
平一は、惜しいことをした、託された神業への使命を放棄したために、寿命が早く尽きてしまったのだと言って、その早すぎる死を嘆き悲しみましたが、全くの急死だったようであります。
そして、豊が没して18年を経た昭和56年1月のある日、第四十話でお話しした様に、豊が麦林楢次郎を伴って平一の元に出現して、その昔、紫光会で出会っていた奇人・田原正吾のことを歓談したのでした。
完