小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話M)2024年9月


令和六年九月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その7

 洵に不滅の教えという云うべきである。皆に心の行と浄魂を常に正せと説き続けてきた所以も又、それが後天的な術を立派に完成するための、重大な道を為しているからである。亦、統一即ち精神の統一をする行を心して修めよと説き続けて来たところの意義も又此処にあるのである。
 何故なれば、精神を統一させる修行こそ、あらゆる術の母体になるからである。そして神は、解読法の始祖としての完成を、石門という道をお与えになって命ぜられたのである。
 東現、南幽、西霊、北神の四界を、或いは降り或いは登り、螺道を巡登して行くその門の道には、幾多の鬼神がいて常に行に対して壁となり、業に対して壁となり、道に対して壁となり、術に対しても亦壁となって命の資格を問い続けて来た。
 これこそ洵に神恩であり、宏大な愛であり、叉石門の慈〇と云えるのである。辛酸は或いは東現の迷路の壁となって幾度か苦汗を絞ったが、為に力を振るわしめ、啓示解読の苦心は、叉、常に西霊の憲術の石門となって行業一如の理法を教え、神業の意義の重大さを、身を以て悟らしめたのである。
 大道再び南幽に巡っては地門に秘奥を求めしめ、或いは北神の紫壁に、幾度応えて大業の悟りを洗い、終に命の何たるかを不動のものと培はれた。その悟りは南幽の?を備えて栄光に光り、東現に回帰しては開祖の名を不朽のものにしていくことであろう。

 以上の様に、一つの術を完成する為には、勿論それは霊術一つに止まらず、技術、芸術、武術等、人間そのものに必要な、あらゆる術がそうであるが、その人間の命が大きければ大きい程、その術も生易しいものでは無いと、これが修行の道も厳しく困難な道であることは当然である。
 使命であるところの命に対して、本当は術も叉、それに等しいものでなければならないのだ。けれども命に与えられた格と、術の格と、人間の格は各々異なること当然である。
 大霊の霊訓に云われるように、その人生の道を、苦は楽の種と云うことを鵜呑みにしないで、苦から楽を求めるのではなく、苦から苦を求め、より苦を求めて行く行であってこそ、命を高からしめる術と、格をより以上大きくする所以となるであろう。

 <以降、鉛筆書きで書かれたこの資料の、老朽化して判読できない部分を省略いたします。>

 この如き命を持たされた彼、竹内満朋は物理霊媒となり、人の世に初めて神界、霊界、幽界、現界の実相を現し示す礎石となったのである。
 そして、ローム大霊は彼の術を司り操りながら、神人交霊の斎庭に於いて、未聞の霊教、未聞の霊訓を垂示し給わったのである。この如き命を持たされた彼の術こそ、洵に偉大というべきである。麦林購読の命と共に、双璧光を後世に迄競うことであろう。
以上〇〇説いてきたように、術というものはどんなにか身の守りになり、身の助けになるのみならず、自身の力の現れであり、叉光である。そして。世の為人の為に大いなる光となるのである。
 恐らく人間の誰もがそういう術を、光を欲しがっているであろう。然し、法に則って道を修めなければ、中々に神は術を呉れないのであろうし、会得することは、なおさら難しいことと思われる。
 大霊は霊訓にも三角の力、即ち?光交流の術を完全に使えるならば、必ずそこに望の花が開くと迄諭されておられるのである。亦、四体合体の術を以てするなら、顕、幽の出入は自在であるとも教えられている。これも又、修めるならば決して出来ない事ではないと思われる。
 然しこの二つの力は、実に仙法にあっての大術というべきであって、前者は神の力を身心に導入する最高の術であり、後者については肉を持った人間でありながら、幽界、霊界、遠くは神界迄出入できる秘法だからである。
 たまにはその様な方もおられるので、必ずそれらの人の力を自分も受けて、この二つの術を身に付ける様励んで 貰いたい。
 そこで、術における印と呪文について。一体どんな働きをするかということについて一言するならば、術に対する印は術の?光を引き寄せる、一つの重要な媒体となり、呪文や真言は 術を動かす處の動力になるものである。
 それ故にこそ、この二つの術を十分に修めて、自己の術を駆使しなければならない。神から頂いた皆の術は、必ず世の中に光を放つことになるであろう。なぜならばその光は、皆の命と共に、かつて天上に在った光だからである。
 宜しく、光、空、無、?を知って、その上に存と在を覚るならば、自分の命の何たるかを覚ることが出来るであろう。かつてイエスは、私に諭し垂れさせ給うた。「汝が天上より受けしもの、地に開きて茜せど、そが光はまた幾万年の昔天にありし光なり。」       
 術を完成するためには、それが大きな命であればあるほど、その術も又生易しいものでは無く、その努力も並大抵な修行ではないこと当然である。そこで神は使命であるところ命が重く、その格が大きければ、それに対する術も等しいものでなければならないし、そのために神は、其の為にその命と格とに必要な術の為の道、即ち石門道をお与えになり、それによって真の術を術足らしめる力を養い、その道を完成させんがための恩慈を賜ったのである―。


 ―以降、残された資料が鉛筆書きの為、字がかすんで判読が難しいので、本稿はこれで終了と致します。

 なお、石門については以下の解説が記されております。
 「石門とは何ぞや」
 石門六十四門とは難行苦行の行門であって、人間が仙籍を得る唯一つの関門である。六十四の難問題に応え得られた者のみが、戸解仙(しかいせん)(死解仙)になることが許される神の最高の試問の事である。
 この道は即ち紫風、紫光の道であって、仙縁にある者のみが神から与えられる恩寵である。紫風、紫光の道とは、行業一如の大道を云う。応え得られざれば道から落ちる。
 しかしながら、石門の道は仙界の秘事であって、人間界に漏らされる事はなかった。如何にして自らに与えられた石門道を、確証することが出来るかと云えば、主霊の霊言のウラの秘を解して、自らが覚ることにあるのだ。
 仙格は人間が登る最高のクラスにあるが故に、あらゆる人間に対して其の石門を手本として、その石門に準ずる自己試練の関門(せきもん)を、神は人生の上にお与えになっているのである。


来月は「大道」に関する講義をお伝えいたします。