小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

第8話(その2)2014年6月


スピリチュアル エピソード 第8話 2/4
平成26年6月



「夭折した次兄道雄が、三度私の元に−」



その2 初めての訪れ−心霊科学が認める霊夢とは−


 それは道雄兄が亡くなって数年後のことでした。今から半世紀以上昔のことですが、それは昨日のことのように、鮮明に記憶しております。

昭和18年当初、銀座一丁目で、荷造り材料等を商う小泉商会を経営していた父は、戦火が激しくなったために、子供たちと祖母の疎開先を探しました。

本来は近県の適当な場所をとのことでしたが、時節柄中々見つからず、その内、世田谷の赤堤で借家住まいの心霊仲間が、近所に家を買うことになったので、取り敢えず祖母に子供三人が、そして終戦の年の昭和20年には、小泉商会が戦災にあったために、父と母も合流しました。

借家は、百坪の土地に建てられた30坪ほどの平屋で、車道に面してお茶の木が植えられた石垣と石の門があり、入って右に回ると、庭に入る木戸と棕櫚の木が、そして玄関がありました。

玄関を入ると直ぐ左手に応接間、右に曲がると、玄関脇のトイレと奥の茶の間を繋ぐ廊下が走っておりました。廊下の左側は神棚のある八畳のお座敷が、右側には三畳の間、風呂場と洗面所、勝手口・そこには炊飯するかまどがありましたが、そして台所が並び、突き当りは六畳の茶の間と、仏壇のある八畳の居間が唐紙で仕切られ、お座敷と居間には表庭に、茶の間には裏庭に下りる縁側がありました。

表庭には枯れ泉水があり、ゆすら梅、棗、柿、ぐみ、つつじ、芭蕉、海棠など沢山の木が、裏庭には井戸があり、やはり柿やイチジクなどが植えられておりました。

と言うと、大変立派な邸宅の様ですが、当時の世田谷では当たり前の作りの様でした。そして、建てられたのは恐らく大正の初め、手入れするゆとりが無いままに、間もなく台所は朽ち果てて手漕ぎの井戸が使えなくなり、やむを得ず洗面所を台所にして、紐をつけたバケツで飲料水や洗濯用の水を汲み上げる、それはもっぱら、子供たちの仕事でありました。


 居間で寝ていた私は、床について暫くたって、便意を催してトイレに行きました。暗闇の中で玄関わきのトイレの電気のスイッチを押すと、ドアの間から、赤い明りがこぼれたのを明瞭に記憶しております。

その時です。玄関のドアが開いて道雄兄がニコニコしながら入ってきたのです。真っ暗闇にも拘らず、その姿は不思議とはっきりしていました。

「道っちゃんが来た!」兄は左手に松葉杖を突いていたので、右手に私の手を添えました。包帯でもしているような、無機質の感触がありました。

因みに、20年ほど前に、亡くなった母が私の元に現れて、寝ている私の両手を探って「体を大事にしてね」と言ったことがあります。その時の母の手は、赤子のそれのようにプリンプリンで、恐らくは霊格の違いなのだと後年悟りました−。

廊下の右手を見て「台所を治したの」そう言いました。そうなんです、父の貧苦を見かねて、三光太源会の松田りゅうさんが、幾ばくかのお金を寄進してくれたお蔭で、洗面所を台所に改造したばかりでした。


 茶の間に入りました。するといつの間にかそこに神棚が置かれて、暗闇の中に二本の灯明が灯されておりました。

「只今帰りました」兄は正座して両手を合わせて頭を下げ、そして何か新聞紙で包んだものを私に差し出して「むっちゃん、これお土産だよ」そう言いました。そこでパッと目が覚めたのです。兄は一体何をくれたのでしょうか。


 ところで、心霊科学では一定の条件に該当する夢を「霊夢」と言って、霊視現象の一つと認めています。

その条件とは「夢に見る情景は、白黒で、かつまもなく忘れるのが普通であるが、霊視で見る光景は天然色で、しかも長期間細部まで覚えている」<霊魂の世界 心霊科学入門 板谷樹・宮沢虎雄・昭和42年 徳間書店>


 また、竹内満朋は「霊夢は、寝しな、又は寝起き直前に見ることが多い。背後霊が人間に何かを知らせる場合に、この時間帯だと雑念が少ないので、伝えやすいのだ」と言っております。

私の見た夢は、この条件に正しく適合しているのです。


以上