小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第十一話)2018年5月


 平成30年5月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第十一話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第十一話「豊野油田開発の終戦までの活動と,
      親交を結んだ3人の畏友について―」



 昭和10年当初の我が国にとっての最大の課題は、益々需要が増大を続ける石油の確保でした。取り分け海軍にとっては、戦艦と航空機の燃料として他に代わるものの無い、人間の血液にも例えられる資源でありました。
 「豊野油田はそのためのものである、言わばお国のためなのだ」平一を始めこの事業に参画した人々は、皆その様な理解の元で事業に取り組みました。ところが、この開発にはとても人知が及ばない、崇高な意義があったのです。そして、戦後になって、高い神からの啓示を解読した畏友麦林楢次郎からそのことを告げられ、愕然としたのでした。
 そのことは後日お話しすることとして、平一が生涯、対面する時には先生との敬称を使った、この事業推進に関わりを持つた畏友、小田秀人、伊田一善、そしてその麥林楢次郎の3氏についてお話しいたします。

 小田秀人は大本教での神秘体験などから、平一が心霊研究の道に入る数年前、昭和5〜6年頃に心霊研究団体「菊花会」を設立して活動しておりました。恐らく、浅野和三郎の紹介で知己を得たのではないかと思われますが、同氏の著書によると、竹内満朋が物理霊媒としての能力を得たのは、この菊花会での物理霊媒育成活動によるものとのことであります。
 同氏に石油のことをいろいろと相談したとの記録が残されておりますが、浅野和三郎が昭和12年没した以降の心霊研究界の権威者として広く活動しており、そのルートで平一は人脈を広げていったものと思われます。
 その中に、菊花会会員で鉱山事業家の峰村恭平がおります。峰村恭平は戦後長岡良子・璽光尊と新興宗教璽宇を創り、信徒に双葉山と呉清源がいたことで知られております。因みに呉清源は、平一が一時徴兵逃れのために「トス」と云う国策会社に購買課長として勤務した折に「隣の課の課長が有名な棋士呉清源で、確かタイピストと結婚したはずだ」と語っておりました。
 それらのルートで最も有力だったのは、後年平一が「もう一年も戦争が続けばその手で開発する筈だった」と述懐した海軍省ヘのルートがあります。
 浅野和三郎の次兄である浅野正恭海軍中将は一時大本教に入信し、師が東京心霊科学協会を設立すると、その主張に共鳴して色々と活動に協力しておりました。恐らくはその関わりではないかと思われますが、平一は山本五十六元帥の前に海軍連合艦隊司令長官を務めた山本英輔海軍大将に知己を得ております。
 具体的にどの様な関わりがあったかの記録は残されておりませんが、終戦直前になって、鹿毛と云う名の海軍中佐がしばしば家を訪れ、話が弾んで深夜に及び、度々家に泊まっていったことがありました。恐らくこれが豊野油田開発の打ち合わせだったものと思われます。
 余談になりますが、私の幼い日の、今も鮮明に思い出される一つの記憶があります。それは戦後間もないある日の出来事でありました。山本英輔が我が家にお出でになって平一と懇談しました。ところが帰り際の玄関先で、平一が英輔に向かって「閣下おやめなさい、おやめなさい」と大きな声で叫んだのですー。
 後刻、母が「どうなさったのですか」と尋ねると「閣下が四国の剣山にソロモンの秘宝が隠されているので、其れを堀に行くと言われたのでお止めしたんだがー」との事でした。因みに、後年になって何かの本で知ったことですが、結局、剣山からは何も新しい発見はなかったとのことでありました。
 そして、その海軍との関わりかと思いますが、商工省地質試験所から派遣されて、豊野油田の調査をと我が家に訪れて来たのが、当時海軍中尉だった伊田一善理学博士でありました。
 そして、同氏により豊野油田の科学的な調査が行われて、「ここには石油がある」との結論を出しました。その結果、海軍省サイドで本格的に乗り気になったようでありますが、その準備が間に合わずに終戦を迎え、先言の平一の述懐となった次第であります。
 伊田一善博士は帝国大学出身の地下資源開発の技術者でありましたが、戦後は大学教授などの教職に就くことなく、在野の専門家として国連に依頼されて中近東を初めとする世界各国の石油開発の指導を行つたり、九州石油の探鉱事業担当常務を務めるなどの活動を行いました。平一と親交が続き、夫人を伴って竹内満朋の物理降霊会にも時折顔を見せ、千尋と云うみ名の背後霊から、探鉱についてのアドバイスを受けている記録が残されております。
 そして、海外での指導が終わると平一の許を訪れて懇談しておりましたが、ある時「私の世界各地での地質の調査研究は、結局豊野油田に対する私の研究成果の正当性を検証するためのもののようです」と語っておられました。

 又、今一人の畏友 麥林楢次郎も、恐らくは小田秀人からの紹介ではないかと思われます。麥林楢次郎は在野の神道研究家で、戦時中は大日本翼賛会の副部長を務めておりました。そして、その時の部長が、後年太源石油の会長となり、石油資源開発株式会社との業務提携の要を務めた簡牛恒夫で、同氏は戦後福岡県出身の衆議院議員となり、大蔵政務次官を歴任しました。そして、その部下に、戦後暮しの手帳の編集長として名を上げた花森安治がおりました。
 麥林楢次郎は戦後、浅野和三郎の志を継いで設立された日本心霊科学協会の設立に参加し、常務理事を歴任しました。豊かな学識と高い信仰心を持っ高潔な人柄で、関係する人々から崇敬されておりました。
 戦後、平一に直接高い神々から、数多くの啓示が降されました。いずれも荘重な文語体で、そのままでは全く何を言っているのか理解することが出来ませんでした。そしてこの啓示について、平一の主支配霊 斎藤景時霊神は「汝自身の解釈を許さず」と云われて、解釈に平一の主観の入ることを戒められたので、その全ての解釈は麥林楢次郎に託されました。
 楢次郎は、一つの言葉に幾つかの漢字を当てはめて文脈を作ると言う独特の方法で解釈を行い、行き詰ると禊をして主護霊にその解釈への助力を乞う等の力を尽くして平一の願いに応え、併せて、三光太源の門下に講義を重ねました。
 前言の豊野油田開発の崇高な意義は、その中で明らかにされたものであります。