小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第四十四話I)2024年4月


令和六年四月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第四十四話


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第四十四話

三光太源会で平一が、門下に教え諭していた

ことはー


その8 神霊界の実相「術というものについて」
     ・続き その2

 技においても雑念を去り、心を清浄にして精神を統一させると云うことは、一番大切な法であるが、術はそれを高度に要求するのである。
 又、格と云うものは、即ち一つの力であると云えるのであって、技が術に変化すると云うことは、その一つの力が術に変化すると云うことにもなる。
 以上、洵に難しい術の秘奥と云うものを説いてきた。この知識を知識としていくら考えても、いくら判ったと云っても、知識は知識だけのものであって、決して秘奥の心髄には到達出来るものでは無い。
 この講義において、何を教えんとしているか。知識は知識として学んでおけば良いのである。術の秘奥を握らんとするには、その知識の広さを求めよと云うのではない。即ち極意に対するその悟りを、道に於いての力の磨きによって、悟ることが出来るならば、その極意のコツと云うものを、会得出来る事であろう。この様に術も覚りなら、道もまた悟りである。その悟りを求めよと教えているのである。術そのものには、術それぞれを守護し、それを支配される神がおられる。然しそれは勿論、神、霊、幽に亘る神の秘であろう。
 或いは又、幾多の真言、呪文、印と云うものにも、神、霊、幽を通じての約束があり、それを守護し支配される神がおられる。
 私がかって、魔神ヘルマンを降服せしめた力は印である。この印は竹内満朋君の主護霊小畑仁左衛門為義霊神から授けられ、その印に対する呪文は、隼人霊神から授けられたものであるが、今にして思えば西霊の神のみ旨と思われる。
 私のこの印の修行と力なくしては、到底、大魔神であるヘルマン霊神を降すと云うことは、思いもよらない事であったであろう。魔神とは最後の対決に於いて、私の結んだ印は術の極意に達したと見えて、突如、眼眩めく大光明が出現した。光明は天地十方に巨大な電光を発している。その中に手に取る如く、荘厳の女体とまごう印の神の示現を拝したのである。そして魔神は力尽きて、ひれ伏し、終に降伏するに至った。昭和24年2月25日の事である。
 人間が何れによらず、その技や術を一心に行ずるならば、神はその技や術を指導する神霊をつけて下さる。力ある奇鬼神、或いは動物霊の類であるが、それらが自身の背後霊の一員となる。彼等は実にその技や術に堪能であり、名人もいる。
 彼等は人間がその道を修行し、練磨することによって、その道を指導し、或いは又その技を補い助けて、終に身に付ける術となさしめ、?光に触れさせることが洵に上手なものなのである。
 神、霊、幽の存在や力を否定し、ただ人間力のみを信じる人間が多いのだが、信じると否とに拘わらず、彼等は人間の陰にあり、裏にあって、神からの命を忠実に守り、其の人間の技や術をどこ迄も、指導する責任を持っているのである。
 それ故にこそ、道を知るものはこの真理に心の眼を開いて、奇鬼神の何たるかを覚らなければならないのである。
 大霊の教えの如く、「汝ら神を知る前に、まず自分の目の前にいるものを知れ」。これは偉大なる真理であるのだ。
 然しながら、彼等は術そのものの神でもないし、印を支配する神でもないことは勿論である。そして人間は彼等背後霊の指導の下にあって、その道の努力を重ね、修行に練磨を積み重ねるに従って、その術が向上して行くときは、彼等も人間の向上と共に、向上するのである。
 即ち、人間を指導する努力の光が、人間の技や術を光らせて、その道を向上させたことになるのである。又その人間、向上の光が彼等に返って、彼等自らより以上向上するのである。これまた螺の大法の示すものである。
 この様に、彼等は人間の背後にあって、技や術を指導する一つの守り神と言えるのであるが、此処で注意しなければならないのが、彼等は癖を持っているということである。
 奇鬼神自体が持たされている癖もあれば、彼等の分霊である眷属、即ち自然霊、或いは配下の動物霊が、それぞれ持っている癖の場合もある。そして奇鬼神が自らの眷属、配下を支配し、指導する場合、その手下の持たされた癖を利用する場合も多いのである。
 彼等奇鬼神の力が人間より数倍先に行き、人間の力を振り回した時は、どういう事になるかと云うと、強烈なる力の持ち主である奇鬼神の場合は、とかく自分の上司である主支配霊の支配の力から逸脱し、その人間をぐんぐんと引きずり回して、その技を急速に術に変えてしまうのである。世に云う天才と云われる人達には、こういう場合が多いのである。

 その結果、人間は技や術の名人にはなれるが、同時にその奇鬼神の持てる癖に巻き込まれ、終にその癖に溺れてしまうことになり易い。然し、その人間が素晴らしい眷属の霊達を従えている場合は、癖に巻き込まれても溺れ切る様なことは無いし、かつ又、人間そのものの器が優れている場合は、より自身の心を修めて、奇鬼神や動物霊を制してしまう。技も優れ、術も名人であり、かつ人格も高く心の器も大きいと云うことがそれである。
 一度彼等の癖に狎れた時、それはその人間生来持てる自分の癖が、その道をつけること勿論であるが、酒なら酒に、勝負事なら勝負事に、色情なら色情に惑溺し、泥酔していく。そしてその悦楽を、人間にとっての善とするならば、偏った欲望、感情のみに発する所の善には悪を包有するが故に、その悪を引き出して、終には身を破滅する結果ともなるに至るのである。
 偏執、偏狭、高慢、虚栄、或は極端な物欲、極端な名誉欲等これらの癖も、又人間の癖であると同時に、彼等の癖でもある。世俗に名人気質と云われるものがある。酒気が切れると良い仕事が出来ない。或いは、女色から女色を漁っていれば、旨い仕事が出来るという様な型、いずれも彼等の癖に人間の癖が、踊らされていることに他ならない。
 術は名人だが、人間の器が偏狭であるとか、技は上手だが頑迷というのもいずれも同じである。高慢が鼻持ちならない。また、自我の強すぎるのも同じである。真の術を心から求め、或いは技を真に磨かんとする者は、志す道にまず技の修行と心の修行とを練り合わせながら、力を修めて行くのが本当である。それ故にこそ、心の修行の大事が此処にもあるのである。
 勿論技の上達や術の向上に彼等の癖を利用して、彼等の力を借りることは、一つの大事な秘法であるが、自らの癖や彼等の癖に惑溺しまってはおしまいである。
 酒を楽しんで酒癖に溺れず、道楽を楽しんで道楽に溺れず、顕幽の道理に心眼を正して彼等の存在を認識し、常に彼等を敬って、彼等の好むところの物を捧げ、誠心不断の祈りを込めるならば、彼等を駆使する力を得られるのである。
 では、なぜ彼等奇鬼神や、それ以下の自然霊、動物霊に、このような人間並みの癖があるのであろうか、という問題になる。人間は万物の霊長と云われるが、これは一面の真理とも思われる。現界では、人間の力は全ての動物に勝り、或いは彼等を利用し駆使している。
 然し人間と云うものの裏面にあって、善悪吉凶を操り、運命の上に重大な影響を与えているものは、自分に因縁のある動物霊や奇鬼神の類である。然しこの動物霊を統括支配するのは、奇鬼神という神霊であるけれども、奇鬼神の統括は、人間から入られた自然霊なのである。自然霊とは、現界に生を得たことの無い幽界、霊界生き通しの霊を云うのであるが、奇鬼神は全部この自然霊なのである。
 奇鬼神は八十四種類に別けられるが、その一つである天狗に例をとるならば、天狗界を統治される統領は、勿論天狗という自然霊であるけれども、それは人間から上がられて自然霊となられた方なのである。洵に神の摂理の玄妙と言うべきであろう。
 これは螺法の故であるけれども、縦糸が横糸に抑えられる、と云うラの原理と同じである。彼等奇鬼神がその神格を達成するには、人間の想像を超えた長年月の難行、苦行の大行を積まれるのである。そして人間が現界に生存するがための、ありとあらゆる要事を修行され、力と術とを身に付けられる。
 そして人間の癖を学ばれ、身に修められるのである。或いは又、低級なる動物霊等は、人間の癖に感応して、彼等自身の癖にする場合もなしとは言えない。
 良癖なら知らず、何故悪癖をも身に修めるかと云うならば、その癖を修めてこそ、人間を指導する上に、それだからこそ、そこに人間の向上進歩があり、又彼等自身の向かう進歩がある。むずかしく云うならば、即ちそれによって、悪の中の善を覚らしめんが為である。
 幽界に存在させられるものも、現界に生かされつつある全てのものを登落回帰の螺道を巡りながら、無限に進化向上することは、宏大な神意であり、神の愛である。
                              
続く