小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内
令和三年10月吉日
スピリチュアル エピソード 特別編 第三十八話
第三十八話
平一の豊野油田開発の苦闘の歩み
その2 昭和32年の試掘について
関係する人々の懸命な努力にも関わらず、開発資金のルートが得られないままに歳月が流れました。
そして、その詳細の記録は残されておりませんが、昭和31年秋に関係者が集合して、翌昭和32年に豊野油田の試掘認可の期限が切れることに対する対策を協議致しました。
申請は先願制で、もしも試掘権が競争者の手に落ちれば、神業が挫折することになります。
そこで関係者が資金を出し合って試掘をすることとなり、昭和31年12月22日、平一と竹内満朋、菊池豊そして北原猪義の4人で、現地、即ち長野県若槻村吉区の鉱区の中心にある神明社を詣でて、竹内満朋が掘削地点決定の為に隼人霊神から授かった、「つづみ式きこう法」によって決定いたしました。
平一にとって、豊野油田発見の奇跡を頂いてから、二十有二年目の事でありました。
そして翌昭和32年4月1日採掘の認可を得て、大同鉱業所富樫六郎に掘削を依頼いたしました。
R一号井の掘削を始めて190メートルの深度で堀止めとして、その上で電気探鉱を行うために、5月3日菊池、北原、三野村の三氏が現地に参りました。
ところがこの日、新潟に出張していた技術主任の竹越憲興が戻って来て、一号井の80メートルの箇所に事故が起きているのを発見して大騒ぎとなりました。地盤が崩壊してロットに粘着して動かなくなってしまったのです。
竹越は精魂込めて回復にと工夫を凝らしたのですがロットが動かず、このままでは1号井は駄目になってしまうという危機を迎えてしまいました。
5月7日に平一の元に「ホウカイカショデ ロットヲカマレテキカイウゴカズ コマル」キ そのような電報が届いたのでした。
その上、資金を提供していた北原猪義の資金繰りに災厄を生じ、急遽菊池豊がこの穴埋
平一は一心に神助を乞い啓示を頂きました。それは難解で私の解読力を超えておりますが、未だ一同の誠意が足らないと言われているようであります。
その後、菊地豊と北原猪義が苦心の金策をしてロットを購い、更にペイントナイトを購入するなどの手を尽くした結果、事故から48日目の6月20日にようやく復旧に成功したのでした。
然し、8月1日平一は菊池豊によばれて「もはや金が続かず、これ以上豊野をやれば自滅のほかなし。いろいろ悩みもしたが、考えても見て太源の第一線から引く決意を固めた。今日から引くから了解してくれ」との事でありました。
神業を力説、誠意を尽くして説いて翻意を促しましたが聞き入れて貰えませんでした。
平一は困り果てて、隼人霊神に祈りを捧げて啓示を拝受しております。
隼人霊神は、「ねんごろに諭しても神の計画を覚れず、濁水におぼれてしまったのでその意に任せよ。改めて使命に心をいたして努めれば、必ず神慈が下るであろう」と云われたとの事でありました。
その様にして、この第一回目の試掘は不成功に終わりましたが、この実績により採掘権の取得を申請して認可されたのでした。
なお、以上は明玄秘録NO2に記されていることでありますが、何故か後年、太源石油が石油資源開発株式会社に提出した「豊野油田に関する概要説明書」によると、この試掘の開坑は昭和32年1月25日に、そして堀止は同年4月14日となっております。
そしてこの資料によると、三河光成地下資源研究所の名で、深度182メートルで良好なガス層を確認したが、掘削直後発生した事故により中止のやむなきに至るとしております。
併せて、R2号井(深度600m.)を計画し、政府の審議会はAクラスで通過したが、諸般の事情により掘削中止したとも記されております。
そして、この実績の元に、石油資源開発株式会社との契約へと進行するのでありました。
完