小泉宗雄・「三光太源文化研究所」のご案内

特別編(第二十五話A)2019年8月


令和元年8月吉日


スピリチュアル エピソード 特別編 第二十五話
(その2)


ローム太霊がその死を哀惜された

父小泉平一の軌跡



第二十五話 平一の3人の子供と水子が

        一人、

        ところがもう一人水子がー


 その2 夭折した次男道雄の闘病の生涯

 二男の道雄は、昭和10年に京橋区木挽町1丁目6番地の店舗併用住宅小泉商会の2階で生を受けました。前年に長男の幸雄が、翌年には私が年子として誕生したため、母さきは子育てと住み込み店員たちの世話に、てんやわんやだったようです。
 そこで、長男の幸雄は祖母のまさが、三男の私は母さきが面倒を見ることとして、道雄は近くに住んでいた針生春代を乳母兼お手伝いに頼みました。
 春代は日本電建に勤務していた夫と若くして死別し、一人娘の悦子を育てながら、銀座通りで焼き芋の屋台を曳いて生計を立てていたようであります。大変明るく、気丈夫な女性でした。
 当時の住宅事情から、この辺りではとても一軒家を借りることは出来ず、近くの3階建のしもた屋の3階に間借りしておりました。そして、何回か引っ越しをしたようですが、何時も引っ越し先がしもた屋の3階だったため、皆が3階バッバと呼んでおりました。
 道雄兄は春代に大変なついて春代も溺愛し、小学校1、2年の頃、春代が悦子を連れて故郷の盛岡に墓参に行く時には、道雄兄一人だけを連れて行き、羨ましく思ったことがありました。
 生まれつき病弱で、そのために私が幸雄兄と一緒に昭和20年に世田谷の松沢小学校から学童疎開に行った時も、隼人霊神から道雄は手元に置いておけと云われて、一人家に残りました。性格も温和で、多少吃癖があったことからか口数が少なく、私は幸雄兄とよく喧嘩をしましたが、道雄兄とは諍いをした記憶がありません。
 色白で背が高く、中々なハンサムボーイで小学生の時のあだ名が鶴さん、三光太源の門下のご婦人方に人気がありました。
 松沢小学校を卒業した後、父の平一が小泉商会を任せた義弟と不仲になり、貧乏になってしまったのにも関わらず、貧乏慣れが出来ずに区立中学では可哀そうだと言って、長男の幸雄と同じ私立の日本学園中学に進学させました。
 そのために時折月謝の支払いに事欠き、学校から月謝の滞納の指摘を受けた旨両親に訴えていた、道雄兄の辛そうな顔が今でも浮かんで参ります。
 そんな思いもしながら進学した高校1年生の時、結核に罹ってしまいました。当時、結核は不治の病とされ、休学を余儀なくされましたが、しかるべき病院で治療するお金がなく、もっぱら妙高山重明霊神と主護霊への治癒の祈りと、浅草の桑原医院桑原先生の投薬に頼り、自宅での闘病生活を余儀なくされました。
 訪ねてくる友人も無く、慰めは日本学園高校の担任だった木崎先生が、クセジュ文庫を何冊か携えて時折見舞いに御出で頂くことと、麦林楢次郎先生や三光太源の門下の方々の激励でした。
 そして、もっぱら読書に明け暮れておりました。読書の範囲は社会学、宗教学、心理学、政治学と広範囲にわたり、それらを要約して「一般教養シリーズ」と銘打った小冊子を作ったり「一般病気論」と云う論文を書いております。
 更に短編小説「星への歩み」「夏の果て」「小路にて」と詩集・短歌集などを残しております。これらはいずれ出版をとの思いから、厚紙で表紙を付け、奥付まで書いております。また、雑誌『映画評論」昭和32年6月号の読者論壇に『映画評論の動向』と云う評論を投稿して誌面に掲載されております。
 やがて、21歳の時、漸く久我山にある久我山病院に入院することが出来ました。病院での規則正しい生活により、病状は安定すると共に患者同士の交流もあり、漸く心安らぐ日々を送れたようであります。
 時折、句会が開かれたようで、遺品の中から入選作とみられる「冬草は 残されしまま青き車行く」と記された短冊がありました。
 因みに、この青き車とは、私が勤務していた綜合統計研究所で、私が立場上自由に使用することが出来たので、休日にしばしば道雄兄の見舞いに行く時乗っていった社用車で、「スピリチュアルエピソード 第2話“お袋に小遣いをやれ”でお話しした、梅ヶ丘の七環交差点で炎上した、その車のことであります。
 又、大学進学の夢も持ち続けて、大学受験資格認定試験にパスしております。
 しかし、その様なことにも関わらず、27歳の時病状が悪化し、平一をはじめ多くの三光太源門下の方々や、この道の関係者の方々の祈りもむなしく、昭和38年1月5日亡くなりました。
 平一の「道」の後継者は当然道雄兄だと信じていた私にとっては、大変なショックでした。私は5年前に「最後の物理霊媒・竹内満朋の物理降霊会でローム太霊が講話された 死後の世界・神霊界の実相に関する研究」を上梓致しましたが、この著者は当然道雄兄の筈だったのです。そして長命であれば、何冊もの著書を―と今でも残念に思っております。゛